So you will be my people, and I will be your God. (Jeremiah 30:22)

月: 2022年5月

私には、自分のしていることがわかりません

今日はガザからの赤ちゃんとおばあちゃん(前にも書いたけど、年を取った女性のほうがガザからイスラエルへのエントリー許可が下りやすいので)に付き添って、シェバホスピタルに行きました。付き添いとして何をしなければならないかあらかじめ聞かされて「できる?」と聞かれたら、絶対「できません」と答えたと思う。でもShevetでは聞かれない。「はい、この人に付き添って、この書類をもって1階に行って、ドクターに会ってきて」と言われて、車の中でば~っといろいろ教えられて、とりあえずよくからなくても行くってかんじ。

アメリカから来たばかりの英語と日本語しかできない私が、ヘブル語の病院にアラビア語しかわからない人を連れていく・・。病院のしくみもよくわからず、英語ができる人があちこちにいるものの、「Go to Dr. Berger’s office」と言われても、ドクターのオフィスのネームプレートはこんなかんじ(Dr. Bergerと書いてある)。

ドクターとガザのおばあちゃんとは、ヘブル語とアラビア語で話が通じず、Google Translateでも埒があかないので、結局Moshe(モーセ)というShevetの知り合いに電話をかけて通訳してもらう。ヘブル語とアラビア語が飛び交うなか、私は何もわからない。最後に、ドクターから血液検査が必要だと英語で指示され、受付でアポをとり血液検査に行くも、そこに行ったら「これとこれとこれが手配されていない」と言われ、それが何かもわからないけど(下のチェックマークのヘブル語)、その紙をもってまた受付へ。手配しなおしてもらって血液検査へ。

ガザのおばあちゃんにも何が起こっているか説明しなくてはならない。Google Translateがたより。かなり微妙だけど、まあなんとか通じるかんじ(かな)?

とにかくなにもわからない中、たぶんやらなければならないだろうことを祈りながらやる!あまりに何もわからないと、わからないことに慣れてくるから不思議。「私には、自分のしていることがわかりません」とのパウロのことばを思い出す。。。

神のことばを委ねられた人々

これはカップケーキ。Amilieが焼いたカップケーキ。これは、お隣のユダヤ人のご家族からもらったお菓子へのお返し。なぜお菓子をもらったかというと、安息日に冷蔵庫が開けられなくて、Amilieが冷蔵庫のライトを消してあげたから。

安息日には火を点けること(キャンドルも電気のライトもなんでも)はしてはならないしごとのひとつなのだけど、冷蔵庫のドアを開けてライトが自動的につくのもそのうちにカウントされるのだという。なので、ふつうは安息日が始まる前に冷蔵庫のライトを消しておくのだが、今回はうっかりわすれてしまって、安息日が始まったら冷蔵庫が開けられない!何も食べられない! となったわけだそうだ。

そういう思いをして律法を守っているユダヤ人の人々、神のことばを委ねられた人々に敬意を表したいと思った。

それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。

あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。

ローマ人への手紙3:1-2

寄り添う

Shevetでの奉仕は日曜から木曜までの各自のスケジュールで動いているけれど、それでも人のいのちがかかわる奉仕。急な様態の変化や手術など、いつ対応が必要かはわからない。何かあればすぐ動く、これがShevetでの奉仕。

週末の夜、夕飯を食べているときに病院から連絡があった。入院しているRachelの容体が悪化したのでECMO(重症呼吸不全患者または重症心不全患者に対して使用される生命維持装置)を使うという判断。ECMOはほぼ最終措置で、これにつながれれば回復できるか亡くなるかがフィフティ・フィフティだという。だから付き添うお母さんにとっては大変な重荷。

私たちは医者や看護婦ではないから病院に行ったからといって何かお手伝いができるわけではない。だけどただ横にいて付き添うことはできる。「私は今から行くけど、だれか一緒に行きたい人はいる?」と聞かれ、私は正直1週間のしごとで疲れ果てていたので「ほかに行く人がいるなら行きたくない」と言った。でもかならず「行きたい」という人もいて、BreaとJoanneで行くことに。こういうとき無理にでなく進んでやりたい人がいるというのが、Shevetのすごいところだと思う。「関係」があるからだと思う。ただそこにいる、寄り添うことの力。

若い力

日曜から木曜まで働き、金・土がお休みのイスラエルでは木曜の夜は週末気分。ジャーマンガールズとももは、今週末はエルサレム方面に遊びにいくことに。私も一応誘ってもらったけど、やっぱ20代と50代は体力的にあまりに違う。とくに昼間に、大きな荷物を1階から3階の屋根裏部屋へ運ぶしごとをしたため、夕方にはへろへろ。

若い子たちは笑顔で出発していきました。どうやら今頃、死海あたりで浮いているみたい。神様若い力をありがとう!

割礼されていない唇

誰でもキリストに従って生きている人なら、人生でたいせつなテーマ聖句というようなものがあるのではないでしょうか。娘の場合は、出エジプト記の6:12です。

どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、わたしは口べたなのです。 

出エジプト6:12(新改訳)

娘は決して口がたつ人ではない。新しく会う人や新しい環境になれるには時間がかかるタイプ。ここShevetでの生活ももちろんそういう意味でチャレンジング。こういう状況にあるとき、いつもこの聖句に戻ってきます。神様は私たちひとりひとりに長所と短所を絶妙に組み合わせ、神の目にあって完全につくられた。神様が私たちをお使いになるときには、どうやってお使いになるかをすでにはっきりと計画されておられ、自分がどんなに足りないように思っても、求めながら一歩を踏み出す時、ゆたかに助けそれをなしてくださる。。。

エジプトで奴隷だったイスラエルの人々をエジプトから導き出した(出エジプト)偉大なリーダー・モーセでさえ、神様が彼をリーダーにしようとしたとき「どうして自分のような口べたがそんなことができるか」と神様に訴えている。英語のNew Living Translationでは「うまく話せない者」、New American Standard Bibleでは「スピーチに技術のない者」というような表現。

今回またこの聖句に帰った時、ひとつ思わされたことがあった。ここでの「口べた」にあたるヘブル語の原語は、aw-rale'(Strong H6189)という言葉であり、これは「割礼をされていない、包皮がとりのぞかれていない」という意味で、ここでモーセは「自分は割礼されていない唇で話している」と言っている。。。

「心の割礼(悔いた心、神をあがめおそれる心)」という表現はきいたことがあったけど、今回は「唇の割礼」。それで思ったけど、私たちの口も手も足も、また特別な能力や得意なこと、さらには短所や困ったところでさえ、すべて神様のために使うためには「割礼」が必要ということではないのかなと思った。決して自分のエゴや自分勝手な思いのために使うのではなく、ただ神のために使いたいという思いで(割礼して)使うとき、主はきっと素晴らしく報い主のみわざをなしてくださるんじゃないかな?

病室訪問

Shevetでたいせつにケアされているこどもたちは、ガザ、クルディスタンをはじめイラクなどからのこどもたちです。3つのグループがあり、ひとつはテルアビブの病院に入院しているこどもたち、もうひとつはまだ自国に帰ることはできないが入院する必要もないのでShevetの家に滞在しているこどもたち、最後はとくにガザのこどもたちで、ガザからテルアビブはそれほど遠くないため、朝ガザでビックアップ、日中病院でチェックし夕方にはガザに帰るこどもたちです。

病院に入院しているこどもたちのところには、毎日Shevetからチームが行き、こどもたちと遊んだり、付き添いの家族とお話ししたりします。

ガザから入院している8歳の男の子。一日中病室にいるのはつらいだろう。私たちがいくと、楽しそうに飛行機を飛ばして見せてくれた。付き添いはおばあちゃんが、「ハラス、ハラス(enough, stop!の意のアラビア語)」を連発。ガザから付き添いでイスラエルに入るのに、高齢の女性のほうが低リスク(テロなどの)とみなされ入国許可が下りやすいのだそうだ。

こちらはやはりガザからの女の赤ちゃん。すご~くスイートでかわいい。

シェバ・ホスピタル

今日はブリアとシェバ・ホスピタルへ。シェバ・ホスピタルはテルアビブにある大病院で、Shevetと契約をしていてShevetが連れてくる病気のこどもたちに手術をしてくれるところ。今日は、カーディスタンから来たLalaが緊急手術をすることになり、朝7時にShevetを出発して病院へ向かう。アシュドテからテルアビブの高速はアメリカのフリーウェイみたいなかんじで、朝のラッシュもちゃんとあります。。。

Lalaのお母さんは英語が話せた!クルディスタンの人としては珍しいことだと聞いた。手術の間お母さんに付き添うというのが私のしごとだけど、彼女はそれほど心配や不安がない様子で、自由な会話を楽しんだ。「どこで英語を学んだの?」と聞くと、「映画」という。彼女は大学で土木工学を学んだそうで、その時の教科書が全部英語だったので単語はかなりそこで吸収したそうだけど、会話の英語は映画を見て覚えたそう。とくにLord of the Ringsと The Hobbitsの大大ファンだそうで、目を輝かせて教えてくれた。それから、自分の住むクルディスタンという「国」がどんなに美しく、すばらしく、平和なところかを語ってくれた。あんなふうに祖国のことを語れるっていいなと思った。

クルディスタンは実際は「国」ではなく、イラク、イラン、トルコ、シリアにまたがる自治領域です。これら4国のどれもがクルディスタンを独立国とはみとめておらず。Lalaの家族はイラクのクルディスタンに住んでいて、Lalaのお母さんはクルディスタン自治政府の統治のしかたや政府の大統領(と呼ぶのかなpresidentと言っていた)のことが大好きなのが語り口調からすごくわかる。主要民族はクルド人(彼女はクルド人)ではあるものの、実はクルディスタンは来るもの拒まずの他民族、多宗教、多言語国なのだそうだ。それぞれの人が尊重され、平等に取り扱われているそうで、そこがすばらしいところだという。イラクの中にあるなどと聞けば、よく知らない私など「安全は大丈夫?」などと思ってしまうけど、クルディスタンは大変に平和で、よく「中東の秘宝」とも呼ばれているようだ。こちらはクルディスタンの紹介ビデオ。

https://www.youtube.com/watch?v=g-DFzKZIdO4

Lalaとお母さんが今イスラエルにいることは、家族の中でも数人しか知らないという。というのも、イラクとイランとイスラエルの間の難しい政治的関係のため、イスラエルに来たことがイラク政府にばれると、イラク・クルディスタンの自治政府で働いているご主人は仕事を失う可能性があるという。なので、彼女たちの写真はなし。

私たちがあれこれ話している間に、手術はスムーズに進んだようで、思ったよりもずっと早く執刀の先生が出てきて手術の成功を知らせてくれた(ここでは大体のお医者さんは英語を話すみたい)。Lalaのお母さんは涙を流しながらよろこんでいた。私も上を見上げて「神様、本当に感謝します」と祈りをささげた。彼女の宗教を知らなかったので、祈ってから彼女をちらっと見るとうれしそうに微笑んでうなづいていた。やっぱ、こういう場合には、神様に感謝して間違いはないと思った。

食料品買い出し

ここShevetでは毎朝、その日に各メンバーが行う働きのスケジュール表が配信される。今日の私の一番大きな仕事は、食料品の買い出し。あら、これくらいなら1時間もあれば終わるんじゃ・・?などと思っていたら大間違いだった。

バッグをもって外出する気まんまんの私に、先輩(といっても30歳以上若いだろうな)のDoroが言った。「まだまだ、まずやることあり。」まずは2軒の大きな家(ひとつはスタッフ、ひとつは病気の子どもと家族用)の食料品倉庫に行って、何があるか何がないかの在庫を確認する。これがなかなか難しい。というのは、食品ラベルは全部ヘブル語だし、加えて見たこともない(クルド人やパレスチナ人が食べる)エギゾチックな食品もある。何かそもそもよくわからないものを、字が読めないお店に行って買えるのか・・・。それから、夕食づくりはローテーションでやるんだけど、その担当者から必要な材料メモをもらって、それも勘定にいれなくてはならない。赤ちゃんもいるから、おむつとかミルクとかもある。在庫確認と買い物必要表ができたところで、Doroの運転でお店に行く。Doroがお店の中に何があるか、どうやって商品を選んだらいいか、セールの見方などを教えてくれる。フレンドリーなイスラエル人のおじさんが、なんやらヘブル語で話しかけてくるので、「Sorry. ヘブル語わかりません」というと、「Ok Ok イングリッシュオッケー。ハローハロー」といやにフレンドリー。アジア人を見るのがめずらしいんだろうな。最初は文字は読めないし、言葉はできないし、すごい居心地の悪い場所だったけど、そのうちモノを探すのに没頭して全く気にならなくなった。ハレルヤ。

結局、大きなカートに2つ分の買い出しをし、トータル1,000シュケル($300くらい)。家に戻り、それぞれの棚に補充。体力的にも精神的にもつかれたしごとでした。Doroは「すぐ慣れるよ」と軽く言うけれど、アシュドテの喧騒をブンブン車を飛ばし(イスラエルの運転はかなり荒い)、ラベルの読めない商品をばんばん買い物籠に入れ、物おじなくどんどん進んでいく彼女は私にはヒーローにしか見えなかった。そう彼女に言うとDoroは、「4か月前Shevetに来たときは、英語がひとつもしゃべれず(今となってはうそみたい)、すごくシャイで英語スタッフとは全く会話ができず、自信も決断力もなかった・・・」という。神様は本当に人を新しく建て上げらる方だ!

フランクとムイエット

フランクは、私たちがShevetに着いたときCovidのせいで隔離していた人。本当は先週アメリカに帰国するはずだったのに、テストが陽性で出発を遅らせばならなかったそう。隔離がやっと終わって、今日朝部屋から出てきて、そして今夜にはシカゴに戻る。

なので、フランクとは実質過ごした時間は24時以下なのだけど、なんだか昔から知っているように感じるような人である。今日の朝の祈りと賛美のときは、いろいろな緊急事態(病気の子どもの様態変化)があり、スタッフの多くはそちらの対処で忙しく、フランクとももと私の3人だけでした。ゆっくり祈り、ゆっくり話をシェアしました。

ムイエットは、クルド人の病気の子どものお兄さんで、付き添いできてShevetに住んでいる。しばらく前にエルサレムに一緒に行く機会があったそう。宿泊に古いカトリック教会の建物を改造した場所を選んだそうなのだけど、そこでムスリムの祈りの時間がやってきた。ムイエットは、教会だった場所で祈りをささげるのはふさわしくないと言ったそう。

フランクはそこで「あなたの神はどういう神か?」と聞いたら、ムイエットは「自分たちの神はアブラハムの神だ」という答えだったそうで、フランクは創世記の12章を開いて自分もアブラハムの神を信じていると話したそう(ポイントは、教会だった建物で祈りをささげることはなんら問題はないのではないかということ)。そうしたらムイエットは「違う違う、私たちの神は世界をつくり、世界の中のすべてのものを造った神だ」というので、フランクは今度は創世記の1章を開いて読んだそう。そうしたら、ムイエットは少し気分を害した様子で、「自分たちの信仰のことで茶化さないでほしい」みたいなことを言ったというのでした。

ニュアンスを汲み取るのはなかなか微妙。というのは、ふたりは翻訳アプリ(Google Translateにはクルド語がないので、何か他のアプリらしい)でコミュニケートしていたわけで。もしかして、フランクが私たちの聖書を開いてそこを基準にして話したのが、彼らの信じるものが二次的で劣るもののように扱われているように思ったのかな。福音を伝えることは純粋な愛からでなくてはならないけれど、でもそれって本当はどういうことなのか私には深い理解が難しい。違う宗教を持つ人(いや同じキリスト教でも観点の違う人)を、そちらからこちらに引き寄せて自分と同じように思わせようとするのではなくて、私たちは「向こう側へ渡って行って」その人たちの考えと近くなることがまずは必要なようにも思う。もしかして私たちはコーランも読んだりしたほうがいいのかもしれない(実際、ShevetのメンバーのBreaはコーランを読んでいる)。私たちの王なる神は私たちのところまで下りてきてくださり、そして私たちのようになってくださった。

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。 

ヨハネ1:14

なんやかんや言っても、主はフランクとムイエットの間でしっかり働いていてくださったようで、フランクが空港に出発するとき、二人は兄弟のように固いハグをしたのでした。アーメン。

安息日の夕べ

これはまだ前の記事と同じ金曜日のこと。金曜は朝モールに行き、そのあとMessianic Congregationで礼拝し、そして礼拝後そそくさと帰路を急いだ。なぜなら、日没にはShabbat(安息日)が始まるので、私たちShevetでは周りのユダヤ人隣人への尊重から、車は運転しないことになっているので。日没までには家(Shevet)に着き中に入ってみたら、安息日のための夕べのテーブルが美しく用意されていた!今日の当番は、インディアナ州からきているBreaとオランダからきているヨハナ。

聖書を読みながらともにパンを割き、ワイン(ぶどうジュース)を飲む。Shevet Achimのテーマソングともいえる賛美曲 Shevet Achim(詩編133)をヘブル語と英語で賛美し、ローソクの灯で食事をいただく。メニューはタコライス(ちょっとらしからぬけど?)チキン、きざんだフレッシュな野菜(野菜がおいしい!)とライス。すごーくおいしい!

食事の後は、リビングで集まって映画を見た。私が好きな古い映画だった。Pursuit of Happiness。安息日って、おいしくてあたたかいと思った。

ユダヤ人教会で礼拝

これは、金曜日の朝モールに行って帰ってきてからの話。AmelieとHanaがこのあたりのMessianic Congregation(ユダヤ人のクリスチャン教会。ユダヤ人は自分たちのことはChristianとは言わず、Messianic(キリストをメシアと信じる)Jew(ユダヤ人)という呼び方をする。Churchという呼び方もあまり使わず、ふつうCongregation(集まり、集会)という言い方をする)に一緒に行く~?と聞いてくれたので、「もちろん!」と着いていく。

Beit Hallel という教会へ向かう。Beit は家 、Hallel は賛美、たたえることなので、賛美の家という意味。ちなみにベツレヘムはBeit=Lehemでパンの家の意。このあたりでは、金曜の夜に安息日礼拝をするところ、土曜日に安息日礼拝をするところなどいろいろあるそう。ここアシュドテの住人は90%がユダヤ系イスラエル人で、アラブ系イスラエル人はほとんどおらず、そういう意味ではユダヤとアラブ(イスラエルとパレスチナ)の闘争などはほとんどないのだけど、その代わり正統派ユダヤ人(Orthodox Jews)からのMessianic Congregation(いわゆるクリスチャンユダヤ人)に対する攻撃があるそうで、この教会も石投げや器物破損などの被害にあっているそう。キリストを信じるユダヤ人は、ユダヤ人からするとユダヤの裏切り者と考えられることも多い。これはキリスト教会がユダヤ人を迫害してきた歴史のゆえ。過去の教会による迫害の傷があり、ユダヤ人は十字架を見るだけで震え上がるという話もよく聞く(なので、Messianic Congregationには十字架はかかげない)。本当は、キリストはまずユダヤ人を救うために、イスラエルの王、ユダヤ人の救世主としてこの世に来たのに、なぜこのようなことになってしまったのかと思う。とにかく、そういうわけで、この教会もユダヤ人からの攻撃があり、礼拝場所を移し、今はビルの裏の外からあまり見えないところにある。写真もとりたかったけど、セキュリティ上写真は禁止ということで、とれませんでした。

Beit Hallel ホームページからのリンクはこちら

後ろに座っていたご家族がみんな英語が堪能ですごくフレンドリーにお話ししたけど、息子さんの一人がTシャツのうえにポータブルプリンターみたいな機械をたすき掛けにしている。。いったいこれは?後で聞いたところによると、彼はOff Dutyのイスラエル軍 Israel Defence Force(IDF)のメンバーらしく、それでも何かの時のために機関銃を携帯しているのだそうで。天使のように甘いマスクと機関銃(プリンターみたいに見えたのは、がちゃんがちゃんとすると銃の形に変身するということらしい)を教会に持ってくる。。これがやはりイスラエルの現実なのかと思いました。写真はもちろん取れなかったけど、イメージ的いはこんなかんじ(webから)。

賛美も祈りも礼拝も全部ヘブル語!だけど、礼拝のスタイル的には私の慣れ親しんだアメリカのプロテスタント系のスタイルに近い。これは案外意外だった!アメリカ・ロングビーチで言っているMessianic Congregationでは、言葉は英語だけど、あとはとってもユダヤ的。頭にはキッパ(男性がつける小さな帽子みたいなやつ)かかぶりものをつけ、男性はターリットと呼ばれる線の入った祈りのショールと、ツィツィと呼ばれる4すみにふさがついた下着(このふさは、長血の女がさわって癒されたイエス様の服のすそのこと)を着ている人もいる。祈りは、シドゥールと呼ばれる伝統的なユダヤの祈りの本(に、新約聖書の内容を付け加えたもの)を使っている。アメリカではこのすごいユダヤユダヤした礼拝に慣れていたので、本場イスラエルでの言葉こそヘブル語だけど、あとはアメリカっぽい礼拝にはちょっとびっくりした。

外国人は私たち4人だけのようだったけど、同時通訳を用意してくれた。メッセージは、黙示録にある世の終わりを前にし、いかに目を覚まし用意をしておくべきかという内容。「わたしたちMessianic Jew(ユダヤ人クリスチャン)は、同胞イスラエルの兄弟にゴスペルを伝えるためいつも準備をしていなくてはならない、彼らをjealousにさせなくてはならい(「ああ、あの人たちの信じている方は、そんなにすごいのか、自分たちもその平安と力が欲しいじゃないか!」みたいな感じの嫉妬)という話がああった。このローマ人への手紙11章11節は、異邦人信者である私としては、いつもイスラエルの人を思うとき心にある一節だったので、ここでこれを聞いて深い感慨がありました。牧師さんは、現代では世界のあちこちにヘイト(憎しみ)があふれているが、私たちは神のシャローム(平安)をもって人に接したいと話しておられました。

それでは尋ねますが、彼ら(イスラエル)がつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。 

ローマ人への手紙11:11

ここの教会にはロシアから帰還したユダヤ人が多く、ホロコーストの悲しい過去を抱える家族も少なくないのだそう。今回一緒に来たShevetのAmilieとHanaはどちらもドイツ人。そこでユダヤ人信者とともに主を礼拝することは、とても複雑でとても祝福される思いであると語ってくれました。それから、牧師さんが先日道で会ったパレスティナ人の話をしてくれ、よく聞いてみたらイスラエルが軍事封鎖をしているガザからきているということだったそう。静かに話をした後(なかなか静かに話をできない組み合わせ)、福音を伝え、そしてともに道にいるままで祈ったという。本当に、この世のあちらにもこちらにもヘイト(憎しみ)、傷、悲しみ、恐怖があふれているけれど、平和の君である私たちの主は癒しのわざも確かに確認させてくださる。主のみ名はほむべきかな。

金曜日!

イスラエルでは、日曜から木曜日までが働く日で、金と土曜が週末。私たちは水曜日にここに到着し、木曜に少し働いて、そして今日は金曜でお休み。さて何しようか。せっかくだから、近くにあるショッピングモールに行ってみようということになりまして。

遅い朝食を食べて、モールまで歩き始める。途中の交差点で、フレンドリーなユダヤ人の女性に会ったら、にこっと笑って、「Shabbat Shalom(シャバット・シャローム)」とあいさつをしてくれました。このShabbat Shalomは、私が土曜日の安息日礼拝に言っているロングビーチのユダヤ人教会で、いつも交わしているあいさつで、なんだかここで聞いて(イスラエルだから当たり前なんだけど)ほっとしました。外国にいるんだけど、なんか家に帰ってきたような。。。

モールではあたりまえのことだけど、すべてヘブル語。何にも読めない。こどもたちが読んでいて見慣れた表紙のパーシー・ジャクソンもハンガー・ゲームも、み~んなヘブル語!

Shevetを出るとき、Hanaに「Covid Test キットがなくなりそうだから、ついでSuper Pharma(モールの中のお店)に買ってきて」と言われ、まずはSuper Pharmaを探してみる。お店はあった!勇気をしぼって中に入る。店の中を3回回りめぐってみるが、どうもそれが見つからない。「お店のひとに聞いてよ」とお互いに押し付け合う。結局、母がまずはお手本を見せることになり・・・

お店のジャケットを着ている人に、「Silha(すいません。←これだけヘブル語)これありますか?(ここは英語)」と写真(Shevetを出るとき、古い箱の写真をとってきてよかった!)を見せる。すぐに、通路の真ん中に平積みしてあるかごのところに連れて行ってくれる。おかしいな。このかごの前何度も通ったのに。お店の中のヘブル語に圧倒され、「探せば見つかる」という信仰が薄すぎて、あるのに見えなかったんだな~。

今度はお金を払わなきゃ。最初、間違った(処方箋をもらう人の)列にならんでいたら、親切なユダヤ人のカップルが英語で「あっちだよ」と教えてくれた。やった~。はじめてのイスラエルでの買い物のお使い。できました!このへんでアジア人は私たち二人くらいなので、どこに行っても「すいません、ヘブル語できないのですが」と言わなくとも、ただおどおどしているだけで、どこからか英語ができる人が助けてくれるのがありがたい!

新しい朝!

スタッフが用意してくれた朝食はこんな感じ。Hummusがおいしい!

毎朝、2時間の賛美と祈りの時間があり、その後決められたしごとをする。今日は、Amilieに教わりながら、そうじ、せんたく、犬(Shevy)のさんぽ。

家はこんな感じ。大きな家が2軒隣同士であって、ひとつに病気のこどもとご家族。もうひとつにスタッフが住んでいます。

Neighborhoodはこんなかんじ。天気が良くて、ヤシの木とオリーブの木があって、案外カリフォルニアのよう。

ご飯は担当制でかわりばんこで作る。メンバーはドイツ人、オランダ人、アメリカ人でみんな若い。若いけどみんな神様のために働く気概がしっかりしているのが、本当にすばらしい!おばさんは私だけ。今、Covidで隔離している人が数人いて、その一人が70代のコロンビアの女性だというので、早く会いたいなあ。

アシュドテ到着!

一日遅れで出発遅れでやっと出発できました。初めて乗るTurkish Air。

機内スクリーンには、コーランもありました。メッカの方向と次の祈りの時間もスクリーンで確認できます。祈りに対するこの姿勢、私も見習いたいものと思いました。

13時間飛行後、イスタンブールで乗り換え。5時間も待ちがあり、YotelAIRというターミナル内のホテルにチェックイン。時間制で部屋が借りられ、シャワー浴びてベットで寝られます。

Yotelで仮眠のあと、テルアビブ行きに。2時間弱でやっとイスラエル到着!

イスラエルのビデオといえば、いつも荒野ばかり見ていたけど、テルアビブの夜景は大都会(あたりまえか!)。入国は思ったよりすごく簡単。PCR検査のあと、ShevetからHanaとAmilieが車で迎えに来てくれ、アシュドテまで無事到着。

もともとの出発にパスポートが間に合わず、あきらめようかと思わされたものの、無事アシュドテまで主が送り届けてくださいました。出発前の日曜に教会で受け取ったメッセージが、モモにも私にも大きな励ましとなっています。

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

使徒行伝1:8

パスポート間に合わず・・

もものパスポートの更新が必要でした。飛行機の予約がないとパスポート申請予約がとれず、やっとのことで取った最早の予約が出発当時の朝7:00。朝、5時起きで出かけるも、結局パスポートができるのが午後1:00だそうで。。

結局、すぐに飛行機を一日伸ばすことに。PCRも再検査(パスポートセンターの近くのベニスビーチで)。

1:00までやることないし、家に帰るのも面倒で、サンタモニカで朝食する。

1:00過ぎに無事パスポートは出て、家に戻りました。明日、また出直しです。

渡航の危険度

イスラエルどころか中近東エリアには行ったことがないですし、それに今は戦争も起こっているし、もちろん怖いです。ここのところ、3月、4月とイスラエル各地でベエルシェバ、ハデラ、ブネイブラク、テルアビブと発砲や刃物でのテロ事件が発生していて、5月のイスラエル独立記念日にはテルアビブ郊外エラドで刃物での襲撃事件がありました。

日本が出している渡航情報では、ガザは渡航中止勧告、West Bankは不要不急の渡航は避ける、それ以外の地区は十分注意となっています。

十分注意には「滞在にあたっての危険を避けていただくため特別な注意が必要」とあるけれど、どう注意をすればいいかが問題です。

ちなみにアメリカやカナダ政府はどんな注意をだしているかと、それから比較対象として他の渡航先(日本、イギリス、フランス)も見てみたらこんなかんじ。

イスラエル(ガザとWest Bank以外)はどこの国でも、2段階目の「十分注意」レベルです。面白いのは、アメリカによると日本は「渡航中止勧告」レベル(Covidのためかと)で、カナダによると「ノーマルレベルの注意」でよしとしていること。こんなに違うもんですかね。アメリカ判断では、イスラエルより日本のほうが渡航注意度が高い!

結局よくわからない・・祈るしかない・・

主よ、私は自分の安全だけでなく娘の安全にも責任があります。残していく家族や友人にも無駄な心配をかけない責任があります。行くべきでないのなら、どうかあなたがみ手をのばし、この旅を完全にブロックしてください。

もしも、行くのがみこころであれば、どうか必要以上の恐れに縛られないように、平安を与えてください。主のみこころのままにしてください。

Shevet Achim

4月12日にボランティアのアプリケーションを出してその翌週には、ももは大学で私は家でShevet Achimの創始者Jonathanとそれぞれzoomでインタビューをし、4月末には正式に受け入れてもらえることが決まりました。

Shevet Achimというのはヘブル語で、Dwelling Togetherというような意味だそうで、もともとは聖書の詩篇の133章から来ています。

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。

詩篇133章1節

Shevet Achimは、パレスティナ自治区ガザに住む心臓手術が必要なアラブ人の子どもたちが、イスラエル側の病院で必要な手術をうけることができるようパスポートや旅行の手配をし、術後の回復のお手伝いをしたうえでガザまで見送るというはたらきをしている集まりです。まあ、何もわからない娘と私が行って何ができるか・・・といえば、きっと回復期のお子さんやご家族のお世話、そうじ、せんたく、食事作りなどになるのかなと思っていますが、とにかくできることをやらせていただければと思い、祈りをもっていってきたいと思います。

世界には民族的・宗教的分断がたくさんあるのでしょうが、ここでの分断はアラブ人とユダヤ人です。ガザはイスラエルに軍事封鎖されており、ガザのアラブ人は簡単に外に出ることができません。すぐ近くにあるイスラエルの病院では世界でも最先端の医療サービスが整っているのに、政治的にも民族的にも金銭的にもそれがかなわないで亡くなっていく子ともたちがいるそうです。アラブとユダヤは聖書に基づけば兄弟です。アラブ人はアブラハムの長男イシュマエルの子孫であり、ユダヤ人はアブラハムの次男イサクの子孫です(創世記16-21章)。

上の聖句の「兄弟」にはアラブ人とユダヤ人が含められているでしょうし、またユダヤ人とクリスチャン教会も入っているかもしれません。イエスキリストはユダヤ人で12弟子もみなユダヤ人でした。キリストはキリスト教という新しい宗教を始めるためにこの世にきたわけではなく、ユダヤ教のラビ、イスラエルの王、ユダヤ人のメシアとして来ました。長い歴史を経てキリスト教はそのユダヤ性を失い、歴史的にはキリスト教会がユダヤ人を迫害しました。宗教改革で有名なマルティン・ルターは私たちプロテスタント教会のはじまりをつくった人ですが、残念ながら晩年には『ユダヤ人と彼らの嘘について』という本を書きユダヤ人を批判しました。それがナチス・ドイツでプロパガンダ的に利用されたという見方もあります。そういうわけでユダヤ教とキリスト教の間にも深い溝が存在しています。Shevet Achimは、神のかたちに似せて作られた神の子どもたちがいろんな国から集まり暮らしています。私たちもほんの短い間ですが、その小さな一部にならせていただければと思います。

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