So you will be my people, and I will be your God. (Jeremiah 30:22)

異邦人と律法

Shevet Achimは聖書のみことばをはじめから終わりまで信じる人で運営されている。クリスチャンと言ってしまえば簡単だけど、いろんな国からのクリスチャン、いろんな宗派を経てきた人がいるし、自らをメシアニック・ジュー(キリストをメシアと信じるユダヤ人)という人もいる。それぞれ聖書を真剣に読み探し求めている人ばかり。

ある安息日が始まる前の食事のテーブルセッティングの奉仕が私の番で、私がキャンドルを灯したら、メシアニック・ジューのマルガリータが「ちゃんと祝福した?」という。「祝福って?」と聞いたら、マルガリータが安息日の食事のキャンドルを点けるときの祝福を教えてくれた(ヘブル語で)。そして、そのキャンドルは消してはいけない(自ら消えるまでそのままにしておく)という。食事が終わってテーブルをすべて片づけ終わっても、キャンドルはまだ燃えている。もうみんなテーブルからいなくなっちゃたし、キャンドルが燃え終わるまで私がそこにいるのはいやだし、だからといって燃えているキャンドルをそのままにしていなくなってもよいものか。福音派クリスチャンのブリアに、「どうしよう、消さないほうがいい?」と聞いてみると、彼女は「そのほうがいいかもだけど、私自身はユダヤのしきたりはあんまり気にしない」という。私はどうだろう。

私はユダヤのしきたりは全く気にしないということはない。どちらかというと気にかけるというか、ユダヤの例祭や律法、ユダヤ人が習慣としてやっているすべてのことには、実はキリストにかかわる深い啓示が隠れていることが常で、クリスチャンにとっても無関係ではないことを知り、ぜひもっと学びたいと思っている。ただ、律法を守らないと神に受け入れられないとか、律法を守ることで神に近づけるとかというようには思わない(実際、クリスチャンの中に、「ユダヤ人たちは律法を守ることで救われるとか、律法を守ることで天国に行けると考えている」というような話になることがあるがそうではないらしい)。さて、どうするか・・と考えて、結局面倒なので安全も考えてキャンドルの灯は吹き消してテーブルを離れた。

今日の朝(最後の朝の賛美と祈りのとき)に、マルガリータと律法のことで(よい意味での)議論になった。私が豚肉を食べるといったら、マルガリータはびっくりする。「神が汚れているという食べ物は今も昔も汚れている」という。使徒行伝で、異邦人にも神の霊が下るのを見たペテロのことばを引き合いにだして、異邦人は4つのもの(偶像に供えて汚れた物、不品行、絞め殺した物、血)を避ける以外には、食物規定などの律法からは解放されているのではないかと言ってみた。

そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。

ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。

使徒行伝15:19-20

そうしたら、マルガリータはその次の句を引用してきた。

昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸教会で読まれているからです。

使徒行伝15:21

マルガリータはどうやら(彼女はスペイン語しか話さないので、Google Translateを使ってなのでかなり微妙)、「4つのものはまず避ける。その後モーセの律法が安息日ごとに読まれれば、それでだんだんと必要な律法は広がっていくという意味だ」という。なので、モーセの律法を考えれば、豚肉は異邦人信者でも食べるべきではない・・というような意味あいをいっているらしい。

マルガリータとリビングルームで

マルガリータは、「一方的な恵みによる救い」は信じているので、俗にいう律法主義者ではない。ただ、「主に感謝し主に従いたいと思えば、おのずと律法を守りたいと思う」という姿勢だ。朝の聖書を時間で、ディスカッションになると、「律法やユダヤはあまり気にかけない派」と「律法やユダヤは非常に大事派」に分かれ、福音派系は前者、マルガリータと娘のタティアナは後者、私はその間だけどかなり後者よりだといつも感じていた。だけど、豚肉問題はどうもマルガリータに賛成ができにくい。だいたい、レビ記11章の食物規定は、神がモーセとアロンに語られ、「イスラエルの人々に言いなさい」と書いてあるから、ユダヤ人にだけ当てはまる律法ではないのかな。。

でも、そこでふと思った。律法をきちんと守ることはすごく面倒くさい。だいたい、イスラエルに来てから安息日が本当に大変だと感じている。私たち異邦人であっても、金曜の午後から土曜の夜まですべての交通機関やサービスやお店が閉まるのは本当に不便(こんな言い方ですいません、神様)。日から木曜まで一生懸命働き、金土の週末を使ってちょっと旅行にでも・・と思っても、金曜の朝出るのは問題ないが、土曜の午後ちょっと早めに帰ってきてゆっくりして、日曜日のしごとはじめに備える・・ということは不可能。土曜の夜9時過ぎくらいにならないと交通機関が動かない。だいたい、ユダヤ系のレストラン、お店、博物館は閉まっているのが多いので、観光にもならない。

土曜日の安息日、エルサレムを歩いていたら、道端できれいに身なりを整えた若い二人のユダヤ人カップルがいて、「英語話せますか?お願いがあるのですが?」という、「なんですか?」というと、「お風呂のボイラーのスイッチを安息日が始まる前に切るのを忘れて、このまま沸かし続けると爆発する(?)かもしれないので切ってくれませんか?」という。スイッチを点けてはいけないというのは聞いたことがあるけれど、スイッチを消すのもいけないんだ~と思いながら家に入り、壁の上にずら~っと並んでいるスイッチを前に、「で、どれを切ればいいですか?」と聞いたら、「どれということを言うのもいけないのです。」という。消してくださいとお願いすること自体がいけないらしい。それで、スイッチをかたっばしからオフにしたら、「ありがとう。それでいいです。」という。

そもそも安息日にしてはならないことは、クリエイティブ(創造に関する)ことである。神が6日で世界を創り、その創造が終わったので、7日目には休まれたことによる。よって、7日目はすべての労働(クリエイティブ・ワーク)をやめて、休息をする、神のところに立ち返り、家族・友人とゆっくりと時間を過ごすためにつくられた。してはならないというと禁止事項のようで(実際そうでもあるが)ずいぶんと厳しく不便なイメージがあるけれど、安息日はやらなくていいことはやらないでゆっくり休み、家族とごはんをゆっくり食べ、他の雑念に惑わされずにただただ安息する日なのです。とはいえ、俗社会にまみれている私からすると、やはり面倒と思ってしまう。だから、スイッチを消すのに、街角に立ってひたすら頼める人を待つこの若い夫婦に出会ったとき感動してしまった。スイッチを消してから、「私はクリスチャンなんですが、あなたがたユダヤ人がこうやって神をあがめるために律法を守って次世代へと伝えてくれたから、みとこばが異邦人にまで伝わりました。このような大変な思いをして、今でも律法を守っていることを私は深く尊敬します。」と伝えてみた。ユダヤ人の二人が意味がわかってくれたかはよくわからないけど。

私たちクリスチャンはともすると律法というものをもう古いもの、私たちには関係ないものと考えがちで、律法を守っているユダヤ人を軽く見てしまうようなところがないかな。「彼らは律法を守っているけど救われていない」などと。少なくとも私は今までそうだったように思う。だけど、こんな面倒な思いをして律法を守り、神をあがめている人々をどうやって見下すことができるだろうかと思うようになった。だいたい、こんな面倒なことを一つ一つ、神様を本当に知らないのにできるだろうか。形式的にやるにしては、たとえば年に2回くらい(お盆と正月とか)ならやれるけど、毎週毎週のことをここまでやる原動力は、やはり神への愛ではないかと感じる(ま、いろんな人がいるだろうとは思うけど)。神との親密な関係なしに、ここまで面倒な律法を守るモティベーションが生じるだろうか。神からの祝福を受けることなしに、トーラを愛してやまないというようなことがありえるだろうか。

私は、マルガリータのいうように、たとえば食物規定(や他の律法)が同様に異邦人に課せられているとは、聖書から読み取れないので少なくとも今はそう思わないけど、もしも・・もしも・・「本当に心から神の子とされた祝福と喜びがあるなら、律法に従ってみませんか?」とチャレンジされたらどうだろう?「そんな面倒なことはできないし、ばかばかしいのでやりませんが、神様はそれでがっかりしたりすることはないと思います」というかな。それとも、「本当に神の子とされ、ありあまる祝福を得、キリストともに歩むよろこびを知った今、もしも律法を守ることがさらに神をたたえることになるなら、よろこんでやります」といういかな。いずれにせよ、律法を守っている人を私は軽んじることはできないと思う。

1件のコメント

  1. 浩子

    ああ、同感。そして私も同じように思っていた。どこまでもトーラを愛する民族でなかったら、その一人として生まれたイェシュアは十字架にかかってくれてはいなかったのかもと今思わされた。

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