フランクは、私たちがShevetに着いたときCovidのせいで隔離していた人。本当は先週アメリカに帰国するはずだったのに、テストが陽性で出発を遅らせばならなかったそう。隔離がやっと終わって、今日朝部屋から出てきて、そして今夜にはシカゴに戻る。
なので、フランクとは実質過ごした時間は24時以下なのだけど、なんだか昔から知っているように感じるような人である。今日の朝の祈りと賛美のときは、いろいろな緊急事態(病気の子どもの様態変化)があり、スタッフの多くはそちらの対処で忙しく、フランクとももと私の3人だけでした。ゆっくり祈り、ゆっくり話をシェアしました。
ムイエットは、クルド人の病気の子どものお兄さんで、付き添いできてShevetに住んでいる。しばらく前にエルサレムに一緒に行く機会があったそう。宿泊に古いカトリック教会の建物を改造した場所を選んだそうなのだけど、そこでムスリムの祈りの時間がやってきた。ムイエットは、教会だった場所で祈りをささげるのはふさわしくないと言ったそう。
フランクはそこで「あなたの神はどういう神か?」と聞いたら、ムイエットは「自分たちの神はアブラハムの神だ」という答えだったそうで、フランクは創世記の12章を開いて自分もアブラハムの神を信じていると話したそう(ポイントは、教会だった建物で祈りをささげることはなんら問題はないのではないかということ)。そうしたらムイエットは「違う違う、私たちの神は世界をつくり、世界の中のすべてのものを造った神だ」というので、フランクは今度は創世記の1章を開いて読んだそう。そうしたら、ムイエットは少し気分を害した様子で、「自分たちの信仰のことで茶化さないでほしい」みたいなことを言ったというのでした。
ニュアンスを汲み取るのはなかなか微妙。というのは、ふたりは翻訳アプリ(Google Translateにはクルド語がないので、何か他のアプリらしい)でコミュニケートしていたわけで。もしかして、フランクが私たちの聖書を開いてそこを基準にして話したのが、彼らの信じるものが二次的で劣るもののように扱われているように思ったのかな。福音を伝えることは純粋な愛からでなくてはならないけれど、でもそれって本当はどういうことなのか私には深い理解が難しい。違う宗教を持つ人(いや同じキリスト教でも観点の違う人)を、そちらからこちらに引き寄せて自分と同じように思わせようとするのではなくて、私たちは「向こう側へ渡って行って」その人たちの考えと近くなることがまずは必要なようにも思う。もしかして私たちはコーランも読んだりしたほうがいいのかもしれない(実際、ShevetのメンバーのBreaはコーランを読んでいる)。私たちの王なる神は私たちのところまで下りてきてくださり、そして私たちのようになってくださった。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
ヨハネ1:14
なんやかんや言っても、主はフランクとムイエットの間でしっかり働いていてくださったようで、フランクが空港に出発するとき、二人は兄弟のように固いハグをしたのでした。アーメン。
人間の間の言葉のコミュニケーションというのは足らないし難しいもんだね。創造の業をなした言葉であったイエス様。人となって私たちの間に住まわれたイエス様。言葉の奥深さを考えさせられるな。創造の業をなした力あるもの。私のために命まで捨てて下さった愛そのもの。宗教、経済的社会的階級、偏見、言語などなど無限のもので私たちは縛られているけれど、自由にされて愛と霊の力に動かされて大胆に働きたいね。
ここで奉仕している人たちは大胆に愛と霊の力によってもう働いてるんだわ。私たち身体があってよかった。コミュニケーションの手段が言葉だけしかなかったら、もう大変なことになってるよね。やはり行いは大切だ。Shevetのみんなの働きがますます祝福されますように。
本当だね、ここの子たちはみんな20歳代だけど、奉仕へのの姿勢に学ぶものが多いです。