異邦人と律法

Shevet Achimは聖書のみことばをはじめから終わりまで信じる人で運営されている。クリスチャンと言ってしまえば簡単だけど、いろんな国からのクリスチャン、いろんな宗派を経てきた人がいるし、自らをメシアニック・ジュー(キリストをメシアと信じるユダヤ人)という人もいる。それぞれ聖書を真剣に読み探し求めている人ばかり。 ある安息日が始まる前の食事のテーブルセッティングの奉仕が私の番で、私がキャンドルを灯したら、メシアニック・ジューのマルガリータが「ちゃんと祝福した?」という。「祝福って?」と聞いたら、マルガリータが安息日の食事のキャンドルを点けるときの祝福を教えてくれた(ヘブル語で)。そして、そのキャンドルは消してはいけない(自ら消えるまでそのままにしておく)という。食事が終わってテーブルをすべて片づけ終わっても、キャンドルはまだ燃えている。もうみんなテーブルからいなくなっちゃたし、キャンドルが燃え終わるまで私がそこにいるのはいやだし、だからといって燃えているキャンドルをそのままにしていなくなってもよいものか。福音派クリスチャンのブリアに、「どうしよう、消さないほうがいい?」と聞いてみると、彼女は「そのほうがいいかもだけど、私自身はユダヤのしきたりはあんまり気にしない」という。私はどうだろう。 私はユダヤのしきたりは全く気にしないということはない。どちらかというと気にかけるというか、ユダヤの例祭や律法、ユダヤ人が習慣としてやっているすべてのことには、実はキリストにかかわる深い啓示が隠れていることが常で、クリスチャンにとっても無関係ではないことを知り、ぜひもっと学びたいと思っている。ただ、律法を守らないと神に受け入れられないとか、律法を守ることで神に近づけるとかというようには思わない(実際、クリスチャンの中に、「ユダヤ人たちは律法を守ることで救われるとか、律法を守ることで天国に行けると考えている」というような話になることがあるがそうではないらしい)。さて、どうするか・・と考えて、結局面倒なので安全も考えてキャンドルの灯は吹き消してテーブルを離れた。 今日の朝(最後の朝の賛美と祈りのとき)に、マルガリータと律法のことで(よい意味での)議論になった。私が豚肉を食べるといったら、マルガリータはびっくりする。「神が汚れているという食べ物は今も昔も汚れている」という。使徒行伝で、異邦人にも神の霊が下るのを見たペテロのことばを引き合いにだして、異邦人は4つのもの(偶像に供えて汚れた物、不品行、絞め殺した物、血)を避ける以外には、食物規定などの律法からは解放されているのではないかと言ってみた。 そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。 ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。 使徒行伝15:19-20 そうしたら、マルガリータはその次の句を引用してきた。 昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸教会で読まれているからです。 […]

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