イエスは安息日を守っておられたことが記録されているが、同時に「Sabbath Breaker(安息日を破る者)」として、律法学者やパリサイ人から非難された記録もある。安息日にしてはならないことをイエスが行ったため、安息日に関する律法を破ったことを非難しているのである。どう安息日を破ったかについては、①癒しを行ったこと、②弟子たちが穂を積んで食べたこと、③イエスに癒された人が床を取り上げたことのケースが出て来る。
安息日にしてはならないこと(メラハ と呼ばれる)が何かというと、それは、創世記2:2-3で神が安息日に創世のわざをすべてやめられた例に倣い「すべての創世のようなわざ=すべてのクリエイティブなわざ」であるというのが共通理解であった。つまり、安息日にはクリエイティブな(つくり出す)わざをしてはならないということである。それらは39のカテゴリーに渡って規定されている。
イエスの「安息日破り」はこの39のカテゴリーのどれかに抵触するということのようだ。順番に調べてみよう。
①安息日破りー癒すこと
イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。 すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人がいた。・・・すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」(ルカ13:10-14)
すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。(マタイ12:10)
調べてみたところ、癒すことは39のカテゴリーのうちGrinding(粉にすること)に相当するので禁じられているという理解らしい。昔、病人を癒したりけが人を手当てするには、薬草など何らかの薬をつくる必要があり、これは往々にしてGrindingが関わったということのようだ。
イエスが地面に唾をして泥をつくり、盲目の人に塗ったのも同じように禁じられている項目とみなされるのだろう。ただ手を置いただけで癒した場合には、何もつくり出していないように感じるが、このような癒しも広義では安息日に禁じられているわざに相当すると判断されたのかなと想像する。
安息日に癒したことは、律法破りだと非難されて、イエスはこう答えた。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」(マタイ12:11-12)
それから彼らに言われた。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼らは黙っていた。(マルコ3:4)
しかし、主は彼に答えられた。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。 この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」(ルカ13:15-16)
イエスは律法を守らなくてよいとも、安息日を守らなくてよいともおしゃってはいない。安息日は守って当然という前提のもとに、「良いことをすること」、「命を救うこと」、「束縛を解いてやること」は律法にかなっており安息日を破ることにはならないと議論しておられる。
実際今日でも、ユダヤ教では「ピクア・ネフェシュ」という基本原則がある。これは「命を救うこと/魂を救うこと」を意味し、これらがすべての律法の掟に優先するという原則である。人のいのち(命、魂)はどの掟を破ってでも救わなければならない尊いものであるという考え方である。なので、今日でも律法を守るユダヤ人のお医者さんたちは、命を救うために安息日に躊躇なく働いている。
②安息日破りー穂を摘んだこと
ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは穂を摘んで、手でもみながら食べていた。 すると、パリサイ人のうちの何人かが言った。「なぜあなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」(ルカ6:1-2)
穂を摘むのはReaping(刈り取ること)というクリエイティブなわざであり、また、手でもむのはThreshing(脱穀)というクリエイティブなわざであり、それぞれ安息日の掟に抵触するというのが、パリサイ人の何人かの言い分である。
これに対しイエスはこう答えられた。
イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。 大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。 ですから、人の子は安息日にも主です。」(マルコ2:25-28)
人の命を守ることが律法のすべての良いわざに優先するという考えの延長で、人の空腹を満たすことも律法に優先するということらしい。サウルに追われるダビデが空腹でノブの祭司アヒメレク(エブヤタルの子)のところに来たとき、そこには聖別されたパンしかなかった(Iサムエル21章)。律法によれば、聖別されたパンは祭司のみが食べることができた(レビ記24章)。祭司でも、ましてやレビ族でもないダビデが、その聖別されたパンを食べたこと、また共の者たちにも与えたことを引き合いに出し、ダビデの家系から出たイスラエルの王であるイエスご自身とその共の者たち(弟子たち)が空腹を満たすため、穂を摘んで食べてもそれは律法を犯したことにはならないと議論されたわけである。
ここでもイエスは、律法や安息日を破ってよいと議論されているわけではない。イエスはあくまで、律法や安息日は守るべきものであるという前提で、空腹を満たすという必要のためになされたことが、律法破り、安息日破りに該当しないと論じておられる。そもそも安息日は、神が愛をもって人のために設けられた良いものであり、安息日の規定を守るために人が犠牲になるのでは本末転倒であると指摘されたのだろう。
③安息日破りー床を取り上げあること
イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。 ところが、その日は安息日であった。 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。(ヨハネ5:8-10)
床を取り上げることは、Carrying(物を運ぶこと)というクリエイティブなわざであり、安息日を破ったことになるというのがユダヤの指導者たちの言い分であった。家の中で物を運ぶことは許されていたようである。公的な場、屋外で物を運ぶことが禁じられていた(というか、今でも正統派ユダヤ人はこれを守っている)。
「起きて床を取り上げ、歩きなさい」とイエスに言われ、この人は従ってそうした。その人は後に宮の中にいた(ヨハネ5:14)。神に感謝していたのだろう。ヨハネ5:15の「自分を治してくれたのはイエスだと」の「治す(フギエス)」ということばは「made whole(完全にされる)、made sound(健やかにされる)、restored(回復される)」という意味で、隠喩的には「teaching which does not deviate from the truth(真実から逸れていない教え)」を意味するそうだ(Blue Letter Bible)。その人は38年も病気で宮に入ることもできなかったが、今や真実の神のことばなるメシアに出会い、的はずれが正されて神に立ち返ることができ、晴れて宮の中で神を賛美していたのかと想像する。
それに対してユダヤ人指導者が「安息日破りだ」と非難したところ、イエスご自身はこうおっしゃった。
イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(ヨハネ5:17)
そもそも安息日は、主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休まれた(出エジプト20:11)ので、それに倣い人間が守るべき主の安息の日である。神は創世の七日目に安息されたが、それ以降は被造物を治め保つためにずっと働いておられる。バビロン捕囚の間も沈黙の400年の間も働いておられた。そして今、父なる神と御子が働き、この病人が神のみもとに立ち返り癒された。
このイエスのコメントは、「床を取り上げ歩くこと」が安息日に赦されるかについては直接的には無関係のように思える。ただそこからぐっと視点を上げて、安息日の起源とそこにある神の思いを考えさせる一言だと思う。神は自らが七日目に休むことによって、人間にこの世での生き方を教えられた。人は六日間この世で働いた後で、七日目は神との関係に立ち戻り平安の中に安らぐ日を与えられた。一週間を繰り返しながら、七日に一日は神との関係を深め、真実のことばから逸れることなく人生を歩む。ひいては、メシアによって世界が回復され、いのちの木の実を食べることができるその日まで、神の永遠に思いを馳せるのが安息日である。
神は、創世の七日目に休まれたが、その後はまどろむことも眠ることもなくイスラエルを運んでこられた。その神が今、回復のみわざを行われた。メシアがそこにおられた。御国が近づき、主の安息がそこにあるのに、「安息日を守る」ことにやっきになってそれが見えないユダヤ人指導者たち。なんと皮肉なことでしょう。
律法や安息日が悪いのではない。それは神が愛をもってイスラエルに与えられたもの。神から出たよいものだ。その源を忘れて方法論にばかり目を留めるとズレてくる。また方法論を、自分ではなく他人に適用すると、もっともっとズレてくる。神を愛せよ&隣人を愛せよという律法の一番大事なことからズレまくる。心に留めたいことだと思う。
興味深い参考文献:JOHN 5: 17: NEGATION OR CLARIFICATION OF THE SABBATH?