ヤッファ

旅の終わりはヤッファ。ヤッファは港町。古くは、ソロモンによって第一神殿が建てられるとき、レバノンから海路運ばれた杉材が、ヤッファに下ろされエルサレムまで運ばれた(II歴代誌2:16)。時が過ぎてバビロン捕囚から帰還したイスラエルが第二神殿を建てるときにも、やはりレバノンからの杉がヤッファ経由でエルサレムまで運ばれた(エズラ3:7)。さらには、神にアッシリアのニネベに行けと言われたヨナが、逆らってタルシシュに逃れようとして出発したのはヤッファだった(ヨナ1:3)。しかしながら、私にとって一番感慨深いのは、ペテロのヤッファでの滞在。

ペテロはかなりの期間、ヤッファで、シモンという皮なめし職人のところに滞在した。

使徒の働き9:43

そこで敬虔にユダヤの律法(食物規定含む)を守っていたユダヤ人ペテロに、神が必ずしも律法にそぐわない動物を食べるように告げる。このときペテロはシモンの家の天井で祈っていたとあるので、こんな場所だったのかもしれない。

高台から眺めるヤッファの旧市街
ヤッファの旧市街

見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。

その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。

そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。

しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」

すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」

使徒の働き10:11-14

「汚れた物で神がきよめた物」が象徴的にさすものは、ユダヤ人以外の異邦人のこと。それまで神の国の福音はユダヤ人にしか伝えられていなかった。例外はマタイ15章に出てくるカナン人の女(マルコ7章ではギリシャ人となっている。いずれにせよユダヤ人以外の異邦人であった)。キリストが「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」とはっきり断言しているのに、それでも「子犬でも(異邦の女でも)主人の食卓(神がイスラエルに与える食卓)から落ちるパン屑(こぼれ落ちる福音)はいただきます」と懇願し、結果としてキリストに助けられる女であり、これが例外。それまでは福音はユダヤ人に語られた。なので、きっとペテロも、ヤッファで「神がきよめたものをきよくないといってはならない(異邦人も神がきよめたのなら、きよくないとはいってはならない)」と示されるまで、異邦人とは完全に切り離した生活をしており、まさか神の福音がユダヤ人以外にも及ぶものであるとは考えていなかったのだろう。ペテロがこう説明している。

「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。

使徒の働き10:28

神は同時に、異邦人コルネリウスという人に啓示を与え、コルネリウスはペテロのところに遣いを送りペテロを迎え入れ、二人は同じ神から啓示を受けたことを確認しあう。ユダヤ人ペテロは、異邦人にもユダヤ人と同じように聖霊が下ること、異邦人もユダヤ人同様に神に受け入れられることを知り、こうして異邦人第一号の信者が生まれる。コルネリウスはカイサリアに住むローマ人の百人隊長だった。ペテロがその驚きと恵みをこう記している。

そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、

どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。

神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。

使徒の働き110:34-36

どうも最近ではキリストの福音はすっかり異邦人のものとなってしまっている(ユダヤ人でキリスト教信者は極小マイノリティ)が、最初はユダヤ人のための福音として始まったのが、異邦人もそこに入れてもらった・・というほうが本当は正しいように思う。とにもかくにも、このヤッファでのペテロへの啓示があったからこそ、私たち異邦人も神の子の輪の中に受け入れられるようになった。なので、ヤッファはとても特別な感謝の場所と思う。

地中海を望む聖ペテロ教会

異邦人の私が神の恵みに加えてもらったことの有難さを思う。もし神の福音がユダヤ人のためだけだったら、私はどんなにみじめだったろう。アブラハムの子孫でもなく、セムの子孫でさえなく、除外され望みのない遠い者を主はそのみ手をのばして祝福の輪に入れてくださった。パウロの言葉が身に染みる。

ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、

そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。

しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

エペソ人への手紙 2:11-13

近い者とされ約束の地イスラエルを踏みしめられる感謝にひたりつつ、この後、Ben Gurion空港に向かい、無事ロサンゼルスへの岐路に着きました。

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