そう遠くはないのかも

手術をしたばかりの我が子に付き添うお母さんが、まだ麻酔でもうろうとしている子の顔をなでながら、「コルバーニ、コルバーニ」と何度も繰り返している。アラビア語だから私は何を言っているのか何もわからないのだけど、このコルバーニという言葉だけはもしかしたらヘブル語のコルバンではないかと思って聞いてみた。 ヘブル語のコルバンは「神へのささげ物、いけにえ」のことだけど、もともとも原語の意味は「神に近づけられるもの、引き寄せられるもの」のような意味。レビ記にあるように、いけにえの上に手を置くことで自分を動物に転嫁し、自分の代わりにいけにえを捧げ、自分が神に近いものとされるようにと祈りをもって行う。いけにえは神に近づくためのもの。 それでアラビア語の「コルバーニはいったいなに?」と聞いてみたら、やはり「犠牲、いけにえ」のことだという。母は(父もかな)子どもが大変な目にあっているときにこの表現をよく使うそうで、「自分があなたの代わりに犠牲になりたい」といって愛を表現するのだそうだ。へえ、似た言葉なんだね。 ある時、子どもの手術後お医者さんに質問をするお母さんのそばで、Google Translateを使ってアラビア語→英語で翻訳を助けていたら、「割礼は受けてもよいか?」という質問だったのでびっくりしたことがある。私はアラブ人も割礼を受けることを知らなかった。へえ、とたまげた顔をしている私を横に、キッパをかぶったユダヤ人のお医者さんは、「薬のせいで血が固まらないことがあるから、今はちょっと待ってください」と当然のことのように対応していた。へえ、割礼もするんだ。 イスラエルでは、ユダヤ系の人とアラブ系の人はその恰好ですぐ見分けがつくことが多い。Shevetのお手伝いしているガザやイラク、クルディスタンから来るお母さんは、アラブのヒジブ(被り物)をしている人がいるとそそくさと近寄ってアラビア語で話しかける。名前もキーで、ドクターがモハメッドとかいう名前だったらアラビア語が通じるということでいきなり喜ぶ。そういうわけで、案外みんなユダヤ系かアラブ系かは常に意識をして、区別をしながら生きているような感じがする(外部者としての観察だけど)。 イスラエルではすべての標識はヘブル語、アラビア語、英語の3か国語で表示されている。文字だけ見ているとまったく違う原語。だけれど、ユダヤ人でアラビア語を独学でマスターしたというモーセに聞いてみたら、実はユダヤ語とアラビア語はすごく似ているところが多いという。ヘブル語もアラブ語もどちらもセム語系であり、文字システムは違うが、文法や単語においてはかなり類似しているという。ぱっと聞いただけでは全く理解できないが、いったん類似点がわかってくるとかなり効率的に学び合える言語らしい。 かなり唐突ですが、日本語と韓国語を思った。たとえばですけど、以下の韓国語を見ても日本人には全く異質のものとしか映らない。 기획재정부는 경제 […]

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さよならパーティ

毎週、新しくやってくる家族がいれば、自国に帰っていく家族もいる。Shevetにやってくるこどもたちはみな心臓に病気があるけど、症状はまちまちで、すぐに帰る子もいれば数か月いる子もいる。 今回は、4家族が帰国。4人中3人の子どもたちは元気になって帰国するので(さみしいなりにも)うれしいことだけれど、一人は残念なことに闘病のすえ亡くなってしまった。赤ちゃんの遺体はエルサレムのムスリム墓地に葬り、お母さんだけの帰国になった。なので、このお母さんに気を使いながらの、壮行会となりました。 お母さんたちが私たちの労をねぎらって、クルディスタンの手料理をつくってくれました。右はドルマといって、ごはんや肉がぶどうの葉っぱでつつんであります。

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ほんものの神

病院で手術が終わるのを待っている間、Breaにいろいろ話を聞いた。彼女はイスラムについての本を2冊読んだところで、今はコーランを読んでいる。聞いたことをちょっとまとめてみます。これは、Breaが学んだことを私がまた聞きしてそれをまとめているので、事実とずれているところも多いかもしれません。その点はお心おきください。 ある人々は、イスラムのアラーとクリスチャンの神は一緒だと言う。どちらもつまるところ、アブラハムの神である。一方で全く違う神だという人もいる。アラーというとなんか全く違う神のようだけど、アラーは単に神を意味するアラビア語。 イスラム教を信じる人は旧約聖書も新約聖書も読み、とくにトーラ(モーセ五書)、詩編と福音書が参照される。 イスラム教を信じる人は旧約聖書の預言者たちとキリストも信じている。キリストはメシアとして高く評価されている。 イスラムでは、後に書かれたものが先に書かれたものより重んじられる。もしも内容的に相いれない部分があれば、後に書かれたものが取って代わる。(キリスト教では、聖書はすべて神の霊感によって書かれ、聖書は神のことばとして一つと理解する) イスラムの書物の中では、コーランが最高位にあり、コーランはむやみに外国語に訳されるべきものではなく、あくまでアラビア語で読まれるべきだと考えられる。(キリスト教では、聖書の一部が翻訳されている言語も含めるなら、3,000語を超える言葉に翻訳されている) イスラムでは、旧約聖書と新約聖書は、それぞれユダヤ人とクリスチャンによって書き換えられ、預言者やキリストが教えたことがそのままの形で保存されていないという考え方もある。 だれでもイスラム教に改宗できる。 コーランにも世紀末預言があり、キリストの再臨も言及される一方でモハメッドの再臨も言及されている。 一部のイスラム教信者では、アブラハムのささげたいけにえはイサクではなくてイシュマエルだったという考え方もある。 […]

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病室訪問

Shevetでたいせつにケアされているこどもたちは、ガザ、クルディスタンをはじめイラクなどからのこどもたちです。3つのグループがあり、ひとつはテルアビブの病院に入院しているこどもたち、もうひとつはまだ自国に帰ることはできないが入院する必要もないのでShevetの家に滞在しているこどもたち、最後はとくにガザのこどもたちで、ガザからテルアビブはそれほど遠くないため、朝ガザでビックアップ、日中病院でチェックし夕方にはガザに帰るこどもたちです。 病院に入院しているこどもたちのところには、毎日Shevetからチームが行き、こどもたちと遊んだり、付き添いの家族とお話ししたりします。 ガザから入院している8歳の男の子。一日中病室にいるのはつらいだろう。私たちがいくと、楽しそうに飛行機を飛ばして見せてくれた。付き添いはおばあちゃんが、「ハラス、ハラス(enough, stop!の意のアラビア語)」を連発。ガザから付き添いでイスラエルに入るのに、高齢の女性のほうが低リスク(テロなどの)とみなされ入国許可が下りやすいのだそうだ。 こちらはやはりガザからの女の赤ちゃん。すご~くスイートでかわいい。

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フランクとムイエット

フランクは、私たちがShevetに着いたときCovidのせいで隔離していた人。本当は先週アメリカに帰国するはずだったのに、テストが陽性で出発を遅らせばならなかったそう。隔離がやっと終わって、今日朝部屋から出てきて、そして今夜にはシカゴに戻る。 なので、フランクとは実質過ごした時間は24時以下なのだけど、なんだか昔から知っているように感じるような人である。今日の朝の祈りと賛美のときは、いろいろな緊急事態(病気の子どもの様態変化)があり、スタッフの多くはそちらの対処で忙しく、フランクとももと私の3人だけでした。ゆっくり祈り、ゆっくり話をシェアしました。 ムイエットは、クルド人の病気の子どものお兄さんで、付き添いできてShevetに住んでいる。しばらく前にエルサレムに一緒に行く機会があったそう。宿泊に古いカトリック教会の建物を改造した場所を選んだそうなのだけど、そこでムスリムの祈りの時間がやってきた。ムイエットは、教会だった場所で祈りをささげるのはふさわしくないと言ったそう。 フランクはそこで「あなたの神はどういう神か?」と聞いたら、ムイエットは「自分たちの神はアブラハムの神だ」という答えだったそうで、フランクは創世記の12章を開いて自分もアブラハムの神を信じていると話したそう(ポイントは、教会だった建物で祈りをささげることはなんら問題はないのではないかということ)。そうしたらムイエットは「違う違う、私たちの神は世界をつくり、世界の中のすべてのものを造った神だ」というので、フランクは今度は創世記の1章を開いて読んだそう。そうしたら、ムイエットは少し気分を害した様子で、「自分たちの信仰のことで茶化さないでほしい」みたいなことを言ったというのでした。 ニュアンスを汲み取るのはなかなか微妙。というのは、ふたりは翻訳アプリ(Google Translateにはクルド語がないので、何か他のアプリらしい)でコミュニケートしていたわけで。もしかして、フランクが私たちの聖書を開いてそこを基準にして話したのが、彼らの信じるものが二次的で劣るもののように扱われているように思ったのかな。福音を伝えることは純粋な愛からでなくてはならないけれど、でもそれって本当はどういうことなのか私には深い理解が難しい。違う宗教を持つ人(いや同じキリスト教でも観点の違う人)を、そちらからこちらに引き寄せて自分と同じように思わせようとするのではなくて、私たちは「向こう側へ渡って行って」その人たちの考えと近くなることがまずは必要なようにも思う。もしかして私たちはコーランも読んだりしたほうがいいのかもしれない(実際、ShevetのメンバーのBreaはコーランを読んでいる)。私たちの王なる神は私たちのところまで下りてきてくださり、そして私たちのようになってくださった。 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。  ヨハネ1:14 なんやかんや言っても、主はフランクとムイエットの間でしっかり働いていてくださったようで、フランクが空港に出発するとき、二人は兄弟のように固いハグをしたのでした。アーメン。

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