ガリラヤ

今日はガリラヤ地方に行った。メギドの丘を通り、ナザレ(キリストの育った街)、カナ(結婚式でキリストが水をワインに変えたところ)、マグダラ(マグダラのマリアの家)、ガリラヤ湖、タブガ(五つのパンと二つの魚、山上の垂訓)、カペナウム(12弟子のうちペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブ、マタイの出身地)、ヨルダン川のルート。このツアーは何となく予想はしていたのだけど、一番表面的というか商業的というかでいまいちだった。すべて聖書にちなんだ場所だけど、つっこみが足りず単なる観光というかんじ。

メギドの丘(ハルマゲドン)。すごく小さな丘。
ナザレの街。現在ではアラブ人の街になっている。70%はイスラム教徒、30%がキリスト教徒。街を歩いている女性は、ヒジャブ(イスラム女性のかぶりもの)をしている人がほとんど。
1世紀カペナウムの街。右側がビザンチン教会の建物で、この教会はペテロの住んでいたとされる家の遺跡の上に立っている。向こうに見えるのがガリラヤ湖。
ガリラヤ湖

このツアーのガイドはダンというアメリカからアリア―(イスラエルに帰還)したユダヤ人。このツアーは行き先がすべてキリストに関係している場所なので、参加者はほぼ全員クリスチャン。ダンは、キリスト教の歴史を語ったりや新約聖書からの聖書箇所を読んだりするので、ユダヤ人だけどキリスト教に対して反感はもっていないように思い、ちょっと質問してみた(ユダヤ人にキリスト教に関係する話をするのは案外気をつかうもの)。ちょうどナザレを訪れていた時だったので、「ダビデの家系からイスラエルの王が出ることを知っていてしかも自分はダビデの末裔でないことを知っていたヘロデ大王の家系が、もともとベツレヘムにいたダビデの家系の子孫から真のイスラエルの王(キリスト)が出ることを恐れ迫害を与えていたため、地元ベツレヘムを離れナザレに集団移住したときいたことがありますが、そうなんですか?」と聞いてみた。そしたら、案外すごい剣幕で、「もともとキリストが実在したいたという証拠などない。だからそんな話は根も葉もない。実在の人物かわからないのだから、ダビデの子孫などというのも根拠がない」と返ってきた。どうやら、イスラエルにとって大切な存在であるダビデと、クリスチャンが「つくりあげた」キリストとをつなげたことが逆鱗にふれたらしい。「キリスト教は実在するかどうかもわからないキリストを殺したといって、ユダヤ人を迫害して虐殺してきた」とも。だから、ダビデとキリストを一緒にするなどとんでもないということらしい。これは、ダンと私の二人だけの会話で、彼はまたグループに戻れば、新約聖書を引用しキリストの逸話を語る。私は彼をコンバートしよう(キリスト教はすぐユダヤ人をコンバートしようとする・・というのが、ユダヤ人側のイメージらしい)としているわけではなく、ただ同じ旧約聖書を読むもの(この「旧約」ということばもユダヤ人によく怒られる。へブルバイブル(クリスチャンの呼ぶところの旧約聖書)が「古い」わけではない!というクレーム。ごもっともです。決して古いわけではありません、新約の前にあるだけのことで)として、聖書を味わう会話がしたいだけなのだが、なかなかうまくいかない。

5つのパンと2つの魚のタプガという丘に来たとき、ヘブル語についての質問なら問題ないだろうと思って、「ヘブル語で魚ということばはmultiply(増え広がる)ことを意味しているという聞いたことがありますが・・」と聞いてみたら、それもいけなかった!ダンにとっては、ヘブル語はユダヤ人のもの、魚はキリスト教のシンボルであり、一緒にするな・・という感じらしい。「魚ということばはダガーということばで、multiplyというような意味はない!」と言い切る。なんとか単にヘブル語やイスラエルの文化に興味を持っていることだけのベースで会話がしたいと思って、Blue Letter BibleのAppで「魚(ダガー)」の語源(ダガーという動詞)をしらべてみてたら出てきた。「ほら、Multiply(増え広がる)という意味があるみたいですよ。しかも、これはクリスチャンのことではなくて、創世記48:16に使われていて、神様がイスラエルの民に増え広がれと言っているところですよ」と言ってみたけど、「そんなことは今までしらなかった」と言い捨ててどこかに行ってしまった。ユダヤ教とキリスト教に橋をかけるのは大変むずかしい。

すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえます(ダガー)ように。

創世記448:16

ユダヤ人とクリスチャンをつなげられるのを嫌がっているのがわかるのだけど、その割にはみんなの前でガイドをするときには「キリストはそもそもユダヤ人だった」とか「キリストは律法を全うしにきたのであって廃棄しに来たのではない」とか「キリスト教のバプテスマはそもそもはユダヤ教のミクバ(清めの水浴び)から来た」と説明する。たぶん、クリスチャン側からあれこれ言ってほしくないけど、でもユダヤを全く無視してキリスト教を語るクリスチャンには「ものいいをつけたい」という思いがあるのかなと思った。彼はだからこそクリスチャン相手にガイドという仕事をしているのかもしれない。限られた個人的会話の中で、キリスト教のユダヤ人に対する過去の迫害、ユダヤ文化や律法を無視した聖書の読み方などに彼の中に憤りがあるように感じた。私たち教会は、過去にクリスチャンがユダヤ人にしたことを悔い改め、神の言葉においてユダヤ人を軽視しているところを悔い改め、近づかなければいけないように感じた。

最期に停まったバプテスマサイト。本来、バプテスマのヨハネがキリストに洗礼をさずけたところはジェリコの近くのヨルダン川なのだが、なにせその場所は今ではパレスチナ側。以前イスラエル側にあったヨルダン川のバプテスマサイトは、ヨルダン川の水量が減って川幅が小さくなり、ヨルダン川からイスラエルへ「テロリスト(ユダヤ人がアラブの人のことを言うときによく使う表現)」が入ってくるといけないので閉鎖したとか。そこで観光用に、人工的な川を引いてきて「ヨルダン川」としているのがここ。

「ヨルダン川」のバプテスマ

ユダヤ人ダンは、クリスチャンが本当のバプテスマの起源や意味など知らないで観光がてらバプテスマを受ける・・というのにいくばくかの反感をいだいているのかもしれない。その説明の仕方やおみやげやの案内などで、あまりに商業的なのでちょっと興味がそがれて娘とアイスクリームを食べていたら、一緒のツアーでオランダから来ていたヘニーが話しかけてきた。同じように感じていたらしい。ヘニーが「一緒に祈ろう」という。同胞世界のクリスチャンのため、ここで今バプテスマを受けている人のため、キリスト教会の一致のため、イスラエルとパレスチナの和解のため、ガイドのダンのため、ユダヤ人とキリスト教会の和解のため、世界のいやしと平和のためにそこで一緒に祈り、聖霊の導きに感動を覚えた。

ツアーが終わってテルアビブに帰ってきてからも、聖霊の導き(? だとおもう。私たちがバスを降りるべきスポットを見過ごしたので、降りるのがヘニーと一緒になった)で、カフェで1時間半くらいいろいろ話し込む。今までの自分たちの歩みやこれからの主にあってのパッションのことなど。イスラエル最後の夜まで神様は祝福を増し加えてくださった。

ヘニーと話をしている間に3人くらいホームレスらしき人がテーブルにやってきた。なけなしのコインを集めてあげるのだけど、ヘニーは都度「What is your name?」と話しかける。これはすごいとおもった。私などかわいそうに思いながらも、お金だけあげてそれでおしまい・・(それ以上はかかわりたくない)という思いがあるのだと自分で思うのだけど、ヘニーは神につくらた人間としてひとりひとりを尊重して名前を聞き、向こうさえよければ素性を聞いてあげるのが大切という。見習いたいと思った。国と国のいさがいでも、ひとりひとりのレベルのことでも、その人の悲しみ、苦しさ、重荷を聞いて(たとえ何もできなくても)理解しようとつとめる・・それだけで大きな平和への一歩かもしれないと思った。

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