ヘブル語の「エメット」という言葉がある。「真実、真理、まこと」などと訳される。

この言葉が使われている聖書箇所には以下があり、下線が「エメット」。
それで今、あなたがたが私の主人に恵みとまことを施してくださるのならなら、私にそう言ってください。(創世記24:49)
その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。(I列王17:24)
あなたの真理に私を導き 教えてください。(詩編25:5)
最初の聖句に出て来る「恵みとまこと」は、ともすると新約的な響きがあるけれど、実は旧約聖書に18回登場する。「恵み」は「ヘセッド」というヘブル語で、神の「やさしさ、愛情深さ、あわれみ深さ」のこと。一方、「まこと」は神のさばきの正しさ、義からたがうことができない神のご性質、固く揺らがないもの、永遠に変わらないものをイメージする。
「エメット」とは、神が神であり、他の何ものも神ではありえない、正義なる唯一の神であることの本質のような気がする。
この「エメット」は名詞だけれど、この名詞の語根(単語の基本的な意味を持つ部分であり、ヘブル語では通常 3つの子音 から成ることが多い)は、下の「アーマン」という動詞。「支持する、確認する、忠実である、信じる」などの意味。

この言葉が使われている聖句には以下があり、下線が「アーマン」。この言葉は、「信じる」と訳されることが最も多い。
アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(創世記15:6)
「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」(出エジプト4:5)
だがわたしのしもべモーセとはそうではない。 彼はわたしの全家を通じて忠実な者。(民数記12:7)
主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。(申命記7:9)
神を信じ、神に対して信頼を置き、忠実である・・・そんなイメージが浮かぶ言葉。よく「クリスチャンは、信じるとか信仰とかを心だけの問題とするが、ユダヤ教では、信じるは行い、行動することである」という批判を聞く。このヘブル語には、信仰とその実としての行いがセットになっているように感じる。
この関連語に、「エムナー」という言葉がある。「アーマン」に含まれている、語根の3つの文字、アレフא、メムמ、ヌンנが含まれている派生語である。意味は、「誠実さ、忠実さ、真実さ、信仰」。

この言葉が使われている聖句には以下があり、下線が「エムナー」。まずは、「エムナー」が神に使われている聖句からみてみよう。
主は岩。主のみわざは完全。
まことに主の道はみな正しい。
主は真実な神で偽りがなく、
正しい方、直ぐな方である。(申命記32:4)
まことに 主のことばは真っ直ぐで
そのみわざはことごとく真実である。(詩編33:4)
「父の神の真実(Great Thy Faithfulness)」という賛美曲があるけれど、その「真実/faithfulness」をヘブル語にするなら、この「エムナー」になるんじゃないかな。神が真実である/faithfulであるとは、どういう意味か。神が約束を決して破らず成就させる方であり、正しいさばきをされる方であり、決して変わらない方ということではないかな。アブラハムと交わした契約を、その日に神は必ず成し遂げられる。イスラエルが分裂し捕囚されても、神殿が壊されユダヤ人が離散しても、人間の目にはまるで成就の望みがないように思えても、神は必ず約束を守られる。人間が足らなくとも神のあわれみと力によって、計画を成就させるための救いを与え贖いを完成される。これが神の真実ではないだろうか。
次に「エムナー」が人間に使われているものには、こんなのがある。
主は一人ひとりに、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます。(Iサムエル26:23)
見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。
しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)
人間の、神に対する真実が、信仰ということ。信仰は単なる心で信じるだけのことではなく、真実なる神を信じたらその確信に立って生き続けることであり、そこには信仰の実である行いが実ることなんだろう。
これらの関連語に、私たちが日常使う「アーメン」がある。語根の3つの文字、アレフא、メムמ、ヌンנは同じで、「アーマン」と母音の発音が異なる。「この言葉は真実です」、「確かにそうなると信じます」というような意味。
イエス様が、「まことに、まことに、あなた方に告げます」とおっしゃるときの、「まことに」もこれ。新約聖書はギリシア語で書かれているけれど、「まことに、まことに」には、ヘブル語の「アーメン」がそのまま使われている。今では、ユダヤ教徒だけでなく、クリスチャンの間でも、話す言葉によらず世界中で使われるようになった。
でもこう考えると、「アーメン」には深い意味があり、「私たちは約束を守られる真実な神を信じており、神の計画が必ず成就すると確信し、その信仰によって日々神に従って行いの実を生みながら進んでいきます」というような深~い意味があるんだろうなと思い巡らした。