「シナゴーグ」は教会か・・・

『「エクレシア」は教会か・・・』という記事を書いたあとで、「シナゴーグ」も教会だったということを知った・・・というか、新約聖書の中で、「シナゴギー」というギリシア語が、教会のことを指すように訳されている箇所があるのを発見した。

『「エクレシア」は教会か・・・』の中で取り上げているように、「エクレシア」というギリシア語は、新約聖書の中では「教会」と訳されることが多いものの、その他にも「荒野(イスラエル)の集会(使徒7:38)」とか「異教の民たちの集まり(使徒19:40)」にも使われている。その上、「エクレシア」という言葉は、旧約聖書(70人訳)にもたくさん出て来て、イスラエルの会衆や集会のことを指している。「エクレシア」は、必ずしもキリスト教会のための特別な言葉ではない。

シナゴーグになったり教会になったり

そこで今度は「シナゴギー」という言葉である。こちらは、新約聖書では57回登場し、ほとんどが「会堂(つまり、シナゴーグ)」と訳されている。キリストが地上におられた間は、安息日ごとにシナゴーグで福音を説かれた。復活・昇天の後は、使徒たちが安息日ごとにシナゴーグで福音を説いた。

「会堂(シナゴーグ)」と訳されていない箇所のひとつはこちら:

私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。 あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします。(ヤコブ1:1-2)

「集会」と訳されている言葉は原語では「シナゴギー」。でもここでは、「会堂(シナゴーグ)」ではなく、「集会」と訳されている。福音書にあるようにイェシュアはシナゴーグで福音を説かれ、使徒の働きにあるように使徒たちはシナゴーグで福音を説いたが、多くのユダヤ人は立ち返らなかった。そこでその後は、福音が異邦人に渡り教会ができた。ヤコブ書はキリスト教会が前提となっているから、ここで「シナゴーグ」が登場するのは都合が悪い。「集会」にしておこう・・・とこんな流れかな。

ユダヤ教の一派

「シナゴギー」という言葉も、「エクレシア」同様、もともとは「会衆」、「集会」を意味した。

つまり聖書にあっては、「エクレシア」はキリスト教会、「シナゴーグ」はユダヤ教の集会という区別はなかった。聖書を書く著者たちは、この区別を意識して書くことはなかったのだ。そもそもその時代(西暦一世紀の終わりまでの間)には、ユダヤ教と区別されたキリスト教というものは存在しなかった。

区別があったとすれば、ユダヤ教の中にあって、ナザレ出身のイェシュアという若きラビをメシアだと信じ、その死と復活の意味を理解し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と伝え続けたユダヤ人の使徒と弟子たちというくくりだった。

そもそも一世紀のユダヤ教にあっては、このほかにもいくつかのくくりが存在した。パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、熱心党、ヘロデ党などなど。すべてユダヤ教の枠内に存在する、特色ごとのグループであった。その中に並んで、新しくナザレ派が生まれた。ナザレ派は、「この道(使徒9:2、19:9、19:23など)」とか、あるいは「キリスト者(クリスチアノース)」と呼ばれ、イェシュアをメシア/キリスト(メシアはユダヤ語、キリストはギリシア語で、どちらも「油注がれた者」の意)とするユダヤ教の一派であった。

クリスチャン・シナゴーグ

主を信じる者がはじめて「キリスト者(クリスチアノース)」と呼ばれたのは、アンティオキアであった。この聖書箇所には、「エクレシア」と「シナゴーグ」が登場する。

(バルナバは) 彼(パウロ)を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会(エクレシア)集い(スナーゴ/シナゴーグの動詞形)、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。(使徒11:26)

2,000年後の今、教会とシナゴーグの間には深く掘り刻まれた溝がある。こちからあちら側には行かないし、あちらもこちら側には近寄らない。私たちは二つの異なる宗教だ。イェシュアの使徒や弟子たちには、はじめはユダヤ人しかいなかったのが、だんだんと福音が異邦人へと広がるにつれ、集会の異邦化が始まっていった。4世紀には、それまで迫害されていたキリスト教が、ローマ皇帝コンスタンティン帝によって優遇されはじめた。彼は教会建設を支援し、神が命令された安息日の代わりに、日曜を公休として日曜礼拝を奨励し、神が命令されたニサンの14日の過ぎ越しの祭りの代わりに、春分の後の満月の後の最初の日曜日に春の祭り(のちにイースターとして知られる)を制定した。その後こうして、ユダヤ教からユダヤ性が抜かれ続け、ローマ国教としてのキリスト教が生まれた。

教会が悪いと言っているのではない。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところだ。私たちは限られた部分しか分かっていなくても、神はその力強いみ手と長いみ腕で、私たちをよいことに導いてくださる。教会で初めて聖書を読むようになり、そのうち自分のユダヤ性に目が開かれ、救われたユダヤ人を何人も知っている。

でも同時に、教会は自分がどこから出てきたかを知り、その原点に戻ることも必要でないかと思う。異邦人のままでイスラエルの神の御前に出て祈る特権を得、またイスラエルに接ぎ木されることで共同相続者としていただいたという失われた記憶を、取り戻す必要があるのではないかとも思う・・・。

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