携挙? ― 取られたい? それとも、残されたい?

よく携挙の場面として引用される下の聖句。メシア・イェシュアの再臨に希望を置くもののための聖句。

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(Iテサロニケ4:16-17)

携挙がいつ起こるかについては、患難期前、患難期中、患難期後などいろいろな説があるけど、まあ、今回はその話はちょっと脇に置いておいて、よく携挙とセットで語られる以下の聖句について考えてみたい。

あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝床で人が二人寝ていると、一人は取られ、もう一人は残されます。  同じところで臼をひいている女が二人いると、一人は取られ、もう一人は残されます。(ルカ17:34-35)

よく聞く説教は、取られる人は目を覚ましていたよいクリスチャンで携挙される人、残される人は目を覚ましていなかった(あるいは、本当に信じていなかった)クリスチャンで置き去りにされる人というもの。

だけど、ちょっと違うんじゃないかなと思う・・・。

残されて赦される?

というのは、「残されます」という単語のギリシア語原語にこんな意味があることを発見したから。そのギリシア語は「アフィエミー」という動詞で、大まかにsend away (行かせる、手放す、解放する)、permit(許す)、leave(残す、離れる)のような意味がある。聖書(KJV)の中でこの言葉が最も多く訳されている英訳語はleaveでこの意味では全部で52回使われている。日本語では、「兄が真で妻を後に残し、子を残さなかった場合(マルコ12:19)」とか「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。(ヨハネ14:18)」「わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。(ヨハネ16:28)」など。

次に多い英語訳はforgiveで47回使われていて、これはどれも聖書の中心課題である「赦す」ことであり、マタイ6章の主の祈りの中だけでも6回出て来る。以下の太字はすべて「アフィエミー」。

私たちの負い目をお赦しください。  私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。・・・もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。(マタイ6:12-15)

こちらも、太字は「アフィエミー」

イエスは彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(ルカ5:20)

「幸いなことよ、 不法を赦され、罪をおおわれた人たち。 幸いなことよ、 主が罪をお認めにならない人。」(ローマ4:7-8)

こんな具合で「アフィエミー」は、神の恵みにより罪を赦されることを意味するわけ。その同じ「アフィエミー」が、携挙の時に引き上げられる人たちにではなく、置き去りにされる人に使われているのはなぜだろうか。

私は限られた知識しかないけれど、聖書の原語を調べるうち、聖書にあっては「ことば」が注意深く選ばれ、他の用例との整合性をとりつつ一貫性のある使い方がされていると感じる。神の霊感によって書かれているのだからあたりまえといえばあたりまえだけど、その整合性のゆえに、聖書箇所と聖書箇所が深く繋げられ、そこに隠されている神の奥義というか真理の宝のようなものを見る思いを持つことがある。

このことば遣いの整合性という考えをベースにするなら、「罪の赦し」の「アフィエミー」が「残される」方に使われていることは、「残されている」方が「赦されている」という意味だからではないかな。「残される」ということは、罪が見過ごされ、世から取り去られず、まだ地に留め置かれているということなのではないかな。

「残りの者」という概念

聖書には一貫して「残りの者」という概念がある。民の偶像礼拝や背きのゆえに、神がさばき、捕囚、滅びのわざを行われる場合でも、神は約束の契約を成就させるために、かならず忠実な者(あるいは忠実である可能性がある者)を残される。神がその民を完全に滅ぼし尽くすことはされず、少数の忠実な者(あるいは忠実である可能性がある者)を選んで残されるという、神の正義とあわれみを表す概念だと思う。

この概念は旧約聖書から新約聖書に連続して流れている。

それは、人々のうちの残りの者と わたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、 主を求めるようになるためだ。(使徒15:17、アモス9:12からの引用)

イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。 「たとえ、イスラエルの子らの数が 海の砂のようであっても、 残りの者だけが救われる。(ローマ9:27、イザヤ10:22からの引用)

ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって、残された者たちがいます。 (ローマ11:4-5、第一列王19:18からの引用) 

以上三つはすべて新約聖書の聖句だけど、どれも旧約からの引用。旧約の「残りの者/残してある」に相当するヘブル単語の大元の動詞(ルートワード)は「シャエール」で、remainとかbe left behindという意味。

「レフト・ビハインド」という映画があった。携挙をテーマにしたスリラーで、世界中で突然クリスチャンが取られて消え、残された人々が混乱と危機に直面する物語。「レフト・ビハインドされないよう(残されないよう)、悔い改めて信仰を確かにしよう」とよく言い合ったものだった。でも、上の「シャエール」においては、レフト・ビハイドは神のあわれみであり、残りの者に数えられることが良いことになる。

こんな聖句もある。

それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。(ローマ11:4-5)

 目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。(黙示3:2)

すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った。(黙示12:17)

下の聖句は前述のルカ17:34-35の先の部分に、並列な形で出て来る聖句だけれど、並べて考えるのなら、「取られる」のは、ノア以外の洪水で滅ぼされた人々、あるいはロトの家族以外の硫黄の火で滅ぼされたソドムの人々であり、「残される」はノアとその家族、ロトとその家族だった。あわれみによって残された人である。

ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。  また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。(ルカ17:27-29)

こう思い巡らしてくると、最後まで主にある希望からぶれることなく、どんなことがあっても耐え忍び、残りの者のうちに数えられるよう進んでいきたいものだ・・・と思わされる。最後にはIテサロニケ4章の引き上げがあるのだろうが、ルカ17章(あるいはマタイ24章)の「取られる/残される」は最終的な引き上げのことを言っているのではなく、そこに至るまでのあわれみによる残りの者のスクリーニング・プロセスなのではないかと思う・・・のだけど、どんなものかな。

しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。(マタイ24:13)

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