「エクレシア」は教会か・・・

新約聖書で「教会」と訳されているのが、この「エクレシア」。初めて聖書にこの言葉がでてくるのは、キリストが使徒ペテロに語った、下の箇所。

そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。(マタイ16:18)

「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と聞いたイエスに対し、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と告白した後に、キリストが口にする言葉である。ペテロは、イエスが、今も生きて働いておられるイスラエルの神の、その子として来られたメシアだ」と告白した。この真理を明らかにしたのは、天におられる父だとイエスがおっしゃったあとで、「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる」と続く。

ペテロは確かに初代教会の指導的使徒のひとりとなり、コルネリウスが異邦人として初めて聖霊を受けるのを見る証人ともなるので、ここで「教会を建てる」という表現が出てくるのは、クリスチャン的に読めばしっくりくる。

だけど、ちょっと見方を変えて読んでみると、ちょっと不思議に思うところがある。イエスは「キリスト教」という新しい宗教を始めるために、この世に来られたのではない。旧約聖書で預言されているイスラエルのメシアとして、この世に来られた。キリストご自身が、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」と言っておられるように、後々福音がユダヤ、サマリア、地の果てまで広がりはじめる使徒2章以前の時点では、フォーカスはイスラエルの民の救いにあるはずと思う。そうするとなぜここで、すでに「教会」なのだろう。「エクレシア」とは、キリスト教特有のものなのか、それとももう少し違う意味もあるのだろうか?

そこで、この「エクレシア」をBlue Letter Bibleで調べてみた。

これを見ると「エクレシア」とは、もともとは「家々から呼び出されて公の場に集まった人々の集まり、集会」というような意味らしい。

4つ具体例がある:

①審議を目的として議会/公の場所に召集された人々の集会

古代アテネのエクレシア(民会)は特に有名らしい。戦争の宣言、軍事戦略の決定、リーダーの選出などをした民会だったそう。

②イスラエルの民の集会

「イスラエルのエクレシア」とはちょっと意外な響き。例えば、以下の節の「集会」は、原語では「エクレシア」が使われている。

また、モーセは、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました。(使徒7:38)

シナイ半島を40年さまよっていたイスラエルの民の集会は「エクレシア」だった!

旧約のヘブル語聖書をギリシア語翻訳したものが七十人訳(LXX、Septuagint)であるが、この七十人訳では「エクレシア」というギリシャ語は73か所で使われている(Blue Letter Bible)。たとえば下はその一つ。

これは、あなたがホレブでのあの集まりの日に、あなたの神、主に求めて、「私の神、主の御声は二度と聞きたくありません。この大きな火はもう見たくありません。私は死にたくありません」と言ったことによるものである。(申命記18:16)

「ホレブでのあの集まり」の「集まり」は「エクレシア」である。

③ 偶然または混乱の中で集まったあらゆる集会や群衆 

使徒の働き19章に、パウロらをめぐって、銀細工人デメテリオのあおりでエペソの群衆が混乱状態になる場面があるが、その集会(ほとんどが異教の異邦人)に「エクレシア」という言葉が使われている。

人々は、それぞれ違ったことを叫んでいた。実際、集会は混乱状態で、大多数の人たちは、何のために集まったのかさえ知らなかった。(使徒19:32)

もし、あなたがたがこれ以上何かを要求するのなら、正式な集会で解決してもらうことになります。(使徒19:39)

今日の事件については、正当な理由がないのですから、騒乱罪に問われる恐れがあります。その点に関しては、私たちは120この騒動を弁護できません。」こう言って、その集まりを解散させた。(使徒19:40)

④ キリスト教会

4番目に初めて、礼拝のため集まったクリスチャン、ユニバーサル・チャーチなどの意味が出て来る。

ちなみに「church」という英語は、古英語の cirice または circe に由来するそうで、これらはギリシャ語の「kyriakon(クリアコン)」 が語源で、この言葉は「kyrios(クリオス)=主のもの」と関連しているそうだ。「church」という英語が実際に用いられ始めたのは4世紀か5世紀という。そう考えると、マタイ16:18の英訳で「church=教会」という言葉が出て来るのは、その当時は存在しなかったけど、後から当てはめた訳語ということになる。

そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。(マタイ16:18)

それから、以下の箇所でも「エクレシア」は使われているが、これらの箇所はまだ教会が存在するにはちょっと時期が早いという判断からか、「エクレシア」を敢えて「教会」と訳さず訳語が飛ばされている。

神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を(エクレシアに)加えて一つにしてくださった(使徒の働き2:47)

以下では、「教会」という言葉が使われている。

そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。(使徒5:11)

しかしながら、ここはまだエルサレムでの使徒と弟子たちの共同体生活が始まったところの場面であり、この時点ではこの共同体はユダヤ教のナザレ派(あるいは「この道」)として認識されていたと推測でき、ユダヤ教とは別のキリスト教教会とは、本人たちも外の人も認識していなかったと思う。それでも「教会」と訳しているのはちょっと無理があるような、キリスト教の手前味噌のような・・・

手前味噌な解釈?

こう考えて来ると、「エクレシア」を純粋にキリスト教的な教会だと断定するのは、少しばかり近視眼的というか手前味噌的というか・・・そんな感じが強くなった。マタイ16:18でキリストは、必ずしも「church=教会」と言ったのではなくて、「エクレシア=集会」と言ったのだ。神は先のこともすべてご存じだから、将来的にユダヤ教とキリスト教が別々の宗教のようになることはわかっていただろうけど、でも少なくともその時点で「キリスト教会を別につくろう」というのがみこころではなかったのだと考える。その時点は「イスラエルの集会」的な意味であったものが、後の人間的思惑の故に(特にローマの関与で)ユダヤ的なものを排除した「キリスト教会」になっていったのではないか。実際、初代教会(集会?)はユダヤ人の集団がユダヤ教のやり方で祈祷し、神殿で礼拝し、いけにえの儀式にも参加し、安息日も守っていた。ユダヤ的なものだった。

ヨハネの黙示録の4章以降に「教会=エクレシア」という言葉が出てこないので、教会は患難期の前に携挙されるという考え方や、教会とイスラエルをそれぞれ別ものとして捕らえる考え方もどうもしっくりこなくなる。異邦人はイスラエルのオリーブの木に接ぎ木されたということや、自分たちがメインなのではなくて、あくまでイスラエルの神が選ばれた神の民に、メシアのゆえに後から加えてもらったという順番を忘れると、なんだか偉くおごり高ぶったことになりはしないかとちょっと心配にもなる・・・。

枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。(ローマ11:17-18)

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