日曜に礼拝している教会では、我らの主のことをイエス・キリスト(Jesus Christ)と呼ぶけれど、土曜日に礼拝しているメシアニック・シナゴーグでは、主のことをイェシュア・ハメシア(Yeshua Hamashiach)と呼ぶ。私はどこで礼拝するかによって、またどこで聖書を学ぶかによって、主の呼び名を変える。
もう慣れたのでそれほど気にならなくなったけれど、でもなぜこうなんだろうと思ったりする。
イエスとイェシュア
Jesus(イエス)は、ギリシャ語のIesous(イエスース)が音訳された英語の名前。そもそもIesous(イエスース)はユダヤ人の名前だったわけで、そのオリジナルはヘブル語であって、Yeshua/イェシュアである。Iesous(イエスース)はただの音としての名前だけれど、Yeshua(イェシュア)はヘブル語としての意味があって、それは「救い」。この言葉が聖書で最初に出て来るのは創世記49:18。ヤコブ(イスラエル)が死を前に、12人の息子たちを祝福するところである。「救い主イェシュア」がすでに、ここに登場していることに感動する。
主よ、私はあなたの救い(イェシュア)を待ち望む。(創世記49:18)
新改訳の2017年版では、この49:18はダンへの祝福とガドへの祝福のちょうど間に、一節だけ離れて書かれているが、ヘブル語原文ではダンへの祝福の方ににくっついて書かれている。その前の17節のダンへの申し送りは決してポジティブなものではなく、ダンは約束の地に入っても割り当ての地(エルサレムの西)を獲得することができず(ヨシュア19:40-48、士師記1:34-35)、後にイスラエルの北端に移住する(士師記18:1)。南北分裂の時には、北部族がエルサレム神殿に出向かなくていいように、自分勝手に置いた二つの金の子牛のうちの一つは、この北端ダンにあった(I列王記12:29)。ページを激しくめくって聖書の最後、黙示録に飛ぶと、神のしもべとして「イスラエルの子のあらゆる部族の者が印を押されていた」とあるにもかかわらず、その14万4千人のユダヤ人の部族の中にはダンの名前がない(黙示録7:3-8)。関係あるのかないのかわからないけれど、どいいうことなんだろう。何か深い意味があるのかな?
キリストとメシア
Christ(キリスト)というのはギリシャ語のChristos(クリストス)からできた英語で、意味はanointed one(油注がれた者)。Messiah(メシア)いうのはヘブル語のMashiach(メシア)からできた英語で、意味はやっぱりanointed one(油注がれた者)。単に言語が違うだけで、全く同じものを指している。Hamashiachというのは、Ha(theを示す定冠詞)とMashiachがくっついているわけで、the messiahという意味。
そういうわけで、イエス・キリスト(Jesus Christ)とイェシュア・ハメシア(Yeshua the Messiah)とは、全く同じもの。私としては、本当の意味のある名前で呼びたいからイェシュアと呼びたいところだけど、教会でその名を言うとなんか「え、誰それ?何教?」とか言われそうで、やっぱりイエスと呼んでいる。気にすることもないのかもしれないけれど・・・。どうかな。
でも、キリストを信じるユダヤ人のことは、Christian Jewとはやっぱり言わないのだなあ。なぜか。多分、歴史的にキリスト教会がユダヤ人を迫害し殺害してきたこと、ユダヤ人がキリストを受け入れてキリスト教にコンバートすることを、教会が強要した背景があり、ユダヤ人はクリスチャンとか教会とかいう言葉には大変に敏感なんだろうなと想像する。また、そもそもイェシュアはイスラエルのメシアとして世に来られ、最初からキリスト教という新しい宗教を始めるために来られたわけではない。一世紀以降だんだん異邦人信者が多くなるにつれて、ユダヤ的なものが失われ(というか意図的に線引きし)キリスト教という新しい派ができていったという背景もあるのかもしれない。ユダヤ人が自分たちのために来たメシアを信じるには、Messianic Jewになればいいだけで、わざわざChristianになる必要はない・・・理に適う考え方ともいえましょう。
イエス・キリストとイェシュア・ハメシアが同一人物であることが明らかになり、クリスチャンとメシアニックが同義であることが明かされて、キリスト教はもともとはユダヤ教であったということを教会が知り、一つの御霊によって神に近づけますように。
このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ2:18-19)