この歌は安息日ごとにShevet Achimのテーブルで歌われる曲がこちら。Shevet Achim(Dwelling Togatherの意味)の名前は詩篇133篇に由来するもので、ここに来る病気の子どもたち、家族たち、ボランティア、訪問者みんなが、国籍、言語、宗教にかかわらず兄弟として一つになって神の祝福のもと住まおう・・という意味がこめられている。なので、安息日に必ず思いを込めて賛美する。歌詞はこの聖句のヘブル語そのままを繰り返す感じ。
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、
なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
詩篇133:1
だけれどこの曲、ユダヤによくあるマイナー調の曲。「なんというしあわせ、なんという楽しさ」とうたっている割にはあまりにも悲しげ。
思うのだけどユダヤの神をたたえる曲はマイナー調が多い。日本の演歌のようなノリで、嘆きながらかなわぬ愛の悲しみを歌うとでもいいましょうか。エルサレム神殿の外壁で唯一崩れず残っている西壁は「嘆きの壁」という名前で知られているけれど、ユダヤ人たちは嘆いているのである。最初の神殿はバビロン捕囚で崩された。そのあとゼルバベルとヨシュアが神殿を再建し、エズラが神殿にトーラを戻し、ネヘミヤが外壁補修を行ない、その後ヘロデ大王が豪華な改修をした第二神殿もAD70年にローマによって崩壊した。集められるはずのユダヤ人がさらにあちこちにちりじりばらばらになった。そこに嘆きがあるのではないかなと想像する。神の愛を知りながらも、神の愛にこたえきれていない嘆き。旧約聖書には、神はイスラエルと契りをかわし、イスラエルは神の妻になる存在であるのに、浮気をした(偶像=神でないものと、姦淫をした)と書いてある(エゼキエル16章)。
ユダヤ賛美はそんなわけで演歌の世界とそれほど遠くないのかもしれない。たとえば下の演歌。三船和子(Google検索しただけでよく知りません)の「やっぱりあなた」という曲の歌詞。
下は聖書から。
主はこう言われる。
わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、
種も撒かれていなかった地、荒野での
わたしへの従順を覚えている
エレミヤ2:2
しかし、あなたは言う。
「あきらめられません。
多国の男たちが好きなので、
私は彼らについてきます」と。
エレミヤ2:25
背信の女イスラエルよ、帰れ。
ー主のことばー
わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。
わたしは恵み深いから。
ー主のことばー
わたしは、いつまでも恨みはしない。
ただ、あなたがたの咎を認めよ。
あなたはあなたの神、主に背いて、
青々と茂るあらゆる木の下で、
多国の男と勝手なまねをし、
わたしの声に聞き従わなかった。
ー主のことば。
エレミヤ3:12-13
神は今も、イスラエルが「やっぱり あなた」と神に帰る日を待ち望んでおられる。帰り切れていないことを嘆くことは、きっとたいせつなのだと思う。嘆かなければ忘れてしまうし、そのままになってしまう。嘆くからこそ、帰る日が来る!
じゃあ、私たちクリスチャンはどうなのだろうとふと思う。イスラエルが神の妻なら、教会はキリストの花嫁と書いてある(IIコリント11:2)。私たちは花嫁にふさわしい歩みをしているだろうか。最近トシのせいか、恵みをよろこぶ明る~いアメリカンな賛美だけだとたまに疲れることがある。私には明るすぎるとでもいいましょうか。神にあって大いによろこぶ一方で、嘆く賛美、神のあわれみを受けつつ神のスタンダードにはとうてい達していない嘆き、かなしみを歌う賛美というのもいいんじゃないかな~などと考える。演歌賛美、いいかも?
嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。
ヤコブの手紙44:9-10