イエスのほんとうのヘブル語の名前、イエシュアは救いを意味することを先日のブログで考えてみた。この「救い」という言葉、それから「福音」ということば、クリスチャンにはなじみの深いことばだけど、聖書を読むようになって12年たった今、この基本的なことばが実はよくわかっていなかったような気がしている。
「私の罪のために死んでくださり復活したキリストを信じれば、救われて永遠のいのちを得て天国に行ける」というのが福音だとするなら、キリストがまだ十字架にかかっていない公生涯のはじめのうちで、キリスト自身が「福音を信じなさい」といっているその「福音」とはいったいなんなのかも疑問だった。
ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
マルコの福音書1;14-15
ユダヤ人として育ち、小さいころから神殿やシナゴーグでみことばを学び、公生涯がはじまってからも安息日ごとにシナゴーグで教え、自分は律法を破棄するためではなく成就するために来た(マタイ4:17)と説き、イスラエルを救うメサイヤとして来られ、12人のユダヤ人の弟子をとったキリストを思うとき、福音は「天国へのチケット」だけではなくて、もっと大きな意味があるのではないかと思いを巡らしていた時、このメッセージに出会った。
話者のAaron EbyはFirst Fruit of Zionという、キリストを信じる者として、聖書を歴史的、へブル原語的、へブル文化的な観点から読み解く研究組織に参与している人で、興味深い記事をたくさん書いている。
Aaron Ebyの話は、詩篇80章、イザヤ書45章、ヨエル2章をとりあげつつ、以下の3つのポイントを指摘しながら聖書のいう「救い」は何なのかを考えてみようと言っている。
- 救いは、死後のことだけなのか、それとも生きている人生のうちのものなのか
- 救いは、今起こっているのか、それとも将来起こるのか
- 救いは、神とのパーソナルな関係にあり個人的なものなのか、それとも民族的・国民的・集団的なものなのか
「時が満ち、神の国が近づいた」のだから、福音は死後のことだけではなく、キリストが来たその時すでにあったものであり悔い改めて信じれば今起こるものであると同時に、「その日」が来るとき神の怒りから救われるという将来的な意味もあり、さらには信じる者は神と個人的な関係を持つ祝福を受けている一方で、イスラエルにとって「救い」は個人的な意味で使われることはほとんどなく、常に神の民イスラエルという集合で語られるというような内容。
問題は、イスラエルの話はユダヤ人のことであって、私たち異邦人クリスチャンには関係のないことなのか・・であるけれど、私個人としては聖書を読めば読むほど、聖書にははじめから終わりまで一貫した神の意図と計画が流れており、私たちにももちろん同様に当てはまるメッセージのように感じる。とくに3つめのポイントにおいて考えるところが多い。「神を愛すること」と、「兄弟を愛すること」が律法の中で一番大切なエッセンスであるというキリストの言葉を考えるとき、異邦人においても兄弟姉妹全員、教会全員、世界の普遍的教会全体で、約束の地に入ること、神の国(天のみ国)に入ることを神は望んでおられるのではないか。
最近、私自身教会内の分裂を経験し、本当はどんどん一つにならなければならないところ、分裂しまったことを主に対して大変申し訳なく思う。教会といえども足りない者の集まり。いろいろあるけれど、そこをキリストにあって赦し赦され、励まし合ってともに神の国に入ることを聖書は願っているのではないだろうか。
使徒パウロはのちには異邦人伝道の使徒とも呼ばたが、本来は生粋のパリサイ派のユダヤ人であり、同胞ユダヤ人の救いへの思いをつのらせている一句が心にささる。
私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためならば、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。
ローマ人への手紙 9:3
私は同じ祈りを、自分の教会の兄弟姉妹に祈れるだろうか。「主よ、私は、(ちょっと受け入れがたい)〇〇さんのためならば、私が神の祝福を全部失いのろわれた者となってもよいです。〇〇さんを引き寄せて祝福してください。」とてもできないだろうなあ。でもこれができたら、教会は分裂しないだろうなあと思った。
万軍の神 主よ 私たちを元に戻し
御顔を照り輝かせてください。
そうすれば 私たちは救われます。
詩篇80:19