ほんものの神

病院で手術が終わるのを待っている間、Breaにいろいろ話を聞いた。彼女はイスラムについての本を2冊読んだところで、今はコーランを読んでいる。聞いたことをちょっとまとめてみます。これは、Breaが学んだことを私がまた聞きしてそれをまとめているので、事実とずれているところも多いかもしれません。その点はお心おきください。

  • ある人々は、イスラムのアラーとクリスチャンの神は一緒だと言う。どちらもつまるところ、アブラハムの神である。一方で全く違う神だという人もいる。アラーというとなんか全く違う神のようだけど、アラーは単に神を意味するアラビア語。
  • イスラム教を信じる人は旧約聖書も新約聖書も読み、とくにトーラ(モーセ五書)、詩編と福音書が参照される。
  • イスラム教を信じる人は旧約聖書の預言者たちとキリストも信じている。キリストはメシアとして高く評価されている。
  • イスラムでは、後に書かれたものが先に書かれたものより重んじられる。もしも内容的に相いれない部分があれば、後に書かれたものが取って代わる。(キリスト教では、聖書はすべて神の霊感によって書かれ、聖書は神のことばとして一つと理解する)
  • イスラムの書物の中では、コーランが最高位にあり、コーランはむやみに外国語に訳されるべきものではなく、あくまでアラビア語で読まれるべきだと考えられる。(キリスト教では、聖書の一部が翻訳されている言語も含めるなら、3,000語を超える言葉に翻訳されている)
  • イスラムでは、旧約聖書と新約聖書は、それぞれユダヤ人とクリスチャンによって書き換えられ、預言者やキリストが教えたことがそのままの形で保存されていないという考え方もある。
  • だれでもイスラム教に改宗できる。
  • コーランにも世紀末預言があり、キリストの再臨も言及される一方でモハメッドの再臨も言及されている。
  • 一部のイスラム教信者では、アブラハムのささげたいけにえはイサクではなくてイシュマエルだったという考え方もある。

BreaはShevetで働いている間に、お子さんが亡くなったばかりの母親に、家族が「Alhamdulillah(神に賛美を)」と早く言え言えと強要されるところを目撃したことがあるそうで、イスラムではなんでも神のみこころであると受け入れることが信仰であり、嘆く余裕も与えてもらえないのは残酷だと思ったと語っていた。その意味で、イスラムの神は決して疑ってはならない権威ある高い存在であり、クリスチャンのように近くにありなぐさめてくれるやさしい神というのとは対照的だと感じたとも言っていた。一方で、アラーもあわれにみあふれ恵み深い神だと語る人もいる、

「イスラムとキリスト教(とユダヤ教)の神は同じか」という質問は意味のあるものだろうかとたまに思う。神は、「私はある」と言われる方であり、昔おられ、今おられ、やがて来られる方。アルファでありオメガである方である。すべてを超越した方である。私たちは神を、神による啓示によって少しずつ知る。聖書をひとまわり読んだから、神がどういう方がわかった!というわけにはいかない。その意味で、同じクリスチャンで同じ教会に通う人の中にも、神がどういうお方かについてはかなり個人差があるのではないだろうか。神は神である。私たちは求めるとき豊かに、それでも神のほんの一部分を少しずつ経験していく。それはこの世での旅路でずっと続くプロセスであり、すべてわかりきることなどないこととも思う。

あなたがたは自分自身に十分気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたは何の姿もみなかったからである。 

申命記4:15

ホレブの山でトーラを受け取った時、イスラエルは神のなんの姿も見なかった。キリストの従者たちはエルサレムで聖霊を受け取り、その多くは十字架刑の前のキリストに会っていたが、それでもすべてを分かっているのとはほど遠かった。私たちは「その日」がくるまで、神と顔と顔を合わせて会うことはない。ただ、神を求め続けることができるだけだ。

しかしそこから、あなたがたがあなたの神、主を探し求め、心を尽くし、いのちを尽くして求めるとき、あなたは主にお会いする。 

申命記4:29

「私は本当の神を知っている。あなたの神はほんものではない。」というのは、たいへんに高ぶったことではないだろうか。

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