誰でもキリストに従って生きている人なら、人生でたいせつなテーマ聖句というようなものがあるのではないでしょうか。娘の場合は、出エジプト記の6:12です。
どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、わたしは口べたなのです。
出エジプト6:12(新改訳)
娘は決して口がたつ人ではない。新しく会う人や新しい環境になれるには時間がかかるタイプ。ここShevetでの生活ももちろんそういう意味でチャレンジング。こういう状況にあるとき、いつもこの聖句に戻ってきます。神様は私たちひとりひとりに長所と短所を絶妙に組み合わせ、神の目にあって完全につくられた。神様が私たちをお使いになるときには、どうやってお使いになるかをすでにはっきりと計画されておられ、自分がどんなに足りないように思っても、求めながら一歩を踏み出す時、ゆたかに助けそれをなしてくださる。。。
エジプトで奴隷だったイスラエルの人々をエジプトから導き出した(出エジプト)偉大なリーダー・モーセでさえ、神様が彼をリーダーにしようとしたとき「どうして自分のような口べたがそんなことができるか」と神様に訴えている。英語のNew Living Translationでは「うまく話せない者」、New American Standard Bibleでは「スピーチに技術のない者」というような表現。
今回またこの聖句に帰った時、ひとつ思わされたことがあった。ここでの「口べた」にあたるヘブル語の原語は、aw-rale'(Strong H6189)という言葉であり、これは「割礼をされていない、包皮がとりのぞかれていない」という意味で、ここでモーセは「自分は割礼されていない唇で話している」と言っている。。。
「心の割礼(悔いた心、神をあがめおそれる心)」という表現はきいたことがあったけど、今回は「唇の割礼」。それで思ったけど、私たちの口も手も足も、また特別な能力や得意なこと、さらには短所や困ったところでさえ、すべて神様のために使うためには「割礼」が必要ということではないのかなと思った。決して自分のエゴや自分勝手な思いのために使うのではなく、ただ神のために使いたいという思いで(割礼して)使うとき、主はきっと素晴らしく報い主のみわざをなしてくださるんじゃないかな?
アーメン!「神の国と神の義をまず求めなさい。そうすればみな与えられる。ハーレールーハレルヤー」、よく思い起こす聖句からの賛美。この「みな与えられる」というところ、最近まで、自分の必要、自分の計画のために必要なものが与えられるって解釈しかなかったけれど、いかに理解に乏しかったものかと思うなあ。神様のご計画がなるために全ての必要なものが与えられるという理解へ、そして自分達成から神様成就に変わらなければと思う今日この頃でした。